健保連 大阪中央病院 平岡諦
- はじめに。 「患者の利益を第一とし、患者に危害を加えたり不正を働かない(ヒポクラテス全集『誓い』より)」。 「医師は患者を決して手段と見るのではなく、常に目的として見なければなりません(フーフェラント『医の倫理』より)」。 「其術を行ふに当ては病者を以って正鵠とすべし。決して弓矢となすことなかれ(緒方洪庵『扶氏医戒之略』より)」。 (著者注;上記のフーフェラントの引用部分に対応して、洪庵が意訳した部分です。)
これらの内容は、現在にも通じる、重要な医師の職業倫理である。この職業倫理を守らないことは、即、患者にたいする人権侵害となる。日本弁護士連合会(以下、日弁連)は「和田心臓移植」を医師による人権侵害であるととらえた。「和田心臓移植」がこの職業倫理にたいする倫理違反であると判断したからであろう。 「和田心臓移植」においては、ドナー・レシピエント双方にたいする人権侵害であった。現在の臓器移植医療においては、特にドナーにたいする人権侵害、そして脳死の取りあつかいについて注意を払わなければならない。 - 「和田心臓移植」と「違法でなければ」。 「和田の手術の後では、同じやり方で移植を行っても罪にならないという道が日本でも開かれたのであった。それにもかかわらず、心臓移植手術は行われなかったのだ」(和田壽郎著「神から与えられたメス」メディカルトリビューン 2000年、146頁より)。 1970年に「和田心臓移植」が不起訴(無罪判決と同一)となった。しかしその後も心臓移植は再開されなかった。「違法でないのに」なぜ心臓移植手術を再開しなかったのか。上の引用文は、和田壽郎医師から他の心臓外科医に対する批判の言葉である。 「違法でなければ」という言葉には「非倫理的であっても」という考えが含まれている。他の外科医が心臓移植手術を再開しなかった理由は、この「非倫理的であっても」に同調できなかったからであろう。 「(非倫理的であっても、)違法でなければ」という言葉には、法律と倫理を別物とする考え、いいかえれば、「非倫理的な法律の存在」が前提になっている。しかしながら、社会道徳の現在の常識では「法は最低限の倫理」であり、法は倫理に含まれる。したがって、「(非倫理的であっても、)違法でなければ」という言葉は詭弁となり、詭弁を使うと社会からの不信をまねく。(蛇足ながら、これは他の業界でも同様である。特に立法権を持つ国会議員が、政治資金規正法に照らして「違法でない」ことを行動の妥当性に用いるとき、政治資金規正法を改定できる本人であるだけに、二重に不信をまねくことになる。これが政治不信の大きな原因である。)
- 移植医のとった方法、「脳死の合法化」: 「和田心臓移植」以降、心臓移植をはじめ、脳死にかかわる臓器移植は日本でおこなわれなかった。そこで移植医の考えた方法は「脳死の合法化」である。 1997年「臓器の移植に関する法律」(現行法)が制定された。法制化の前提とされたのが、(1)脳死を人の死と捉えることが社会の共通認識には至っていないこと、(2)脳死状態になったら臓器を他者に提供したいと考える者の意思(自己決定)を尊重すること、の2点である。そこで「臓器移植に限定して、脳死を人の死とする」現行法が制定された。すなわち、「脳死の限定的な合法化」が行われたことになる。 今回、衆議院で可決されたA案では、現行法の制定時に前提とされた(1)、(2)を否定して、「脳死を一律に人の死とする」、「本人の自己決定を否定する」法案である。したがって、これは現行法の改定ではなく、もし成立すれば「脳死の完全な合法化」を定めた新法である。今回のような決め方でよいのであろうか。 今回の改定の目的の一つは、子供に対する脳死移植の道を開くことである。そのためには、子供に対する「脳死の限定的な合法化」を付け加えることを考えるのが筋道ではなかろうか。 もしA案が成立して「脳死を一律人の死とする」ことが法律で決められた場合、医療の進歩で臓器移植が不必要になった時点で、人の死をもとに戻すことは可能なのだろうか。その時、問題はおこらないのだろうか。
- 「脳死の合法化」による、医師の職業倫理の低迷: 先にも述べたが、社会道徳の現在の常識では「法は最低限の倫理」である。「脳死の合法化」によって、医師の職業倫理は最大限でも「遵法」、すなわち「最低限の倫理の実行」に過ぎなくなる。このことは、「非倫理的ではあるが」から「最低限の倫理の実行」へ進歩したことにはなるが、職業倫理の努力目標が「最低限の倫理」に固定されるという退歩でもある。 現行法は「脳死の限定的な合法化」である。したがって、対象の医師は移植関係医師に限定されている。もしA案が成立すると、対象の医師は、移植と関係する、しないにかかわらず、脳死に関わるすべての医師に拡がることになる。すなわち「遵法」を最大限の職業倫理とする医師が増加することになる。「最低限の倫理」を実行する医師の拡がりは、医師全体としての倫理性の低下となることはあっても、倫理性の向上に働かないことは確かである。 「脳死の完全な合法化」は、医師全体としての倫理性の低迷をもたらし、その結果は、さらなる医療不信の増強となっても、決して医療不信の解消にはつながらない。すなわち、和田心臓移植がもたらした医療不信に加えて、現在の医療崩壊を加速させることはあっても、医療再生を促進することにはならない。
- 「和田心臓移植」の職業倫理違反と「自律」。 1968年8月8日;日本で最初の心臓移植。83日目にレシピエント死亡。 1969年9月;日弁連は、ドナー・レシピエントに対する医師の人権侵害ととらえて「心臓移植事件特別委員会」を設置。 1969年12月;漢方医ら、和田壽郎教授を殺人罪および業務上過失致死罪で告発。 1970年8月;札幌地検は、不起訴処分に。 1973年3月;日弁連は、和田壽郎教授宛の警告をおこなう。
以上が、「和田心臓移植」の概略である。日弁連の行った警告のうち、職業倫理に関係する主な内容を以下に示す。 「心臓移植における受給者の適応は、当該心臓移植に関係のない内科医を含む複数の医師の対診の下に決定すること。」 「提供者の死の判決は、当該心臓移植手術に関係のない麻酔科医を含む複数の医師の対診の下にこれを行うこと。」 対診の倫理性については、その当時に実効性のあった、昭和26年日本医師会定「医師の倫理」に示されている。その第二 医師の心得、第二章 医師相互間の義務に次のように記されている。 第2節 必要なる対診は、努めてこれを行うべきである。 第3節 対診には、不誠実と競争心があってはならない。 第13節 患者について、他医からの問い合わせがあった場合には、詳細かつ迅速に、必要な記録を提供すべきである。
日弁連の警告は、「和田心臓移植」における「密室性」を「対診」という言葉を使って糾弾したものであり、和田壽郎医師が犯した職業倫理違反を日本医師会の「医師の倫理」を使って指摘したものである。日弁連という外部からの指摘を受けたにもかかわらず、日本の医療界は対応できなかった、あるいはしなかった。その後も対応していない日本の医療界は「自律」できていないことになる。これら一連の状況により、社会に大きな医療不信を残し、また、法曹界からも信用されていない。その結果が、今日の立ち去り型医療崩壊の底流となり、また、現在検討中の医療安全調査委員会設置法案(仮称)の法曹界側の意見にも影響を与えていると思われるのである。 そもそも移植医の取った「脳死の合法化」とは、法律により決めてもらうこと、すなわち「他律」への道である。A案ではその対象となる医師が拡大されることになり、日本の医療界の「自律」への道をさらに逆行させることになる。 - 問題点: 1)今回、衆議院で可決されたA案は、現行法制定時の前提を二つとも否定しており、「脳死を一律に人の死とする」、「本人の自己決定を否定する」法案である。したがって、これは現行法の改定ではなく、もし成立すれば「脳死の完全な合法化」を定めた新法である。今回のような決め方でよいのだろうか。 2)今回の改定の端緒の一つは、子供に対する脳死移植の道を開くことである。そのためには、子供に対する「脳死の限定的な合法化」を付け加えることを考えるのが筋道ではないだろうか。 もしA案が成立して「脳死を一律人の死とする」ことが法律で決められた場合、医療の進歩で臓器移植が不必要になった時点で、人の死をもとに戻すことは可能なのだろうか。その時、問題はおこらないのだろうか。 3)「脳死の完全な合法化」が医師全体としての倫理性の低迷をもたらし、その結果は、さらなる医療不信の増強となっても、決して医療不信の解消にはつながらない。すなわち、和田心臓移植がもたらした医療不信に加えて、現在の医療崩壊を加速させることはあっても、医療再生を促進することにはならないだろう。 4)そもそも移植医の取った方法、「脳死の合法化」とは、法律により決めてもらうこと、すなわち「他律」であり、A案は日本の医療界の「自律」(プロフェッショナル・オートノミー)への道をさらに逆行させるものであろう。 5)A案は「本人の自己決定を否定」するものであり、現在の日本の医療における基本概念、インフォームド・コンセントの概念に逆行するものであろう。 以上、医師の職業倫理からみた臓器移植法の改定、特にA案についての問題点を述べた。
(2009.7.5脱稿)



