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	<title>血液疾患・なんでも相談室</title>
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	<pubDate>Mon, 09 Aug 2010 04:59:52 +0000</pubDate>
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		<title>(14)中原医師過労死裁判の最高裁和解、そしてこれから</title>
		<link>http://www.ahiraoka.com/column/340/</link>
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		<pubDate>Mon, 09 Aug 2010 04:59:52 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[コラム]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.ahiraoka.com/?p=340</guid>
		<description><![CDATA[　「一般の過労死」については労働基準法により規定されている。しかし、「医師の過労死」については例外とされ、法律による明確な規定がない。その理由は「自己管理の第一次的な責任は、医師個人にある」という倫理問題と関係しているからである。そこで中原利郎医師の過労死裁判の行方を注目していたが、現在の日本の現実から考えてこれしかないであろうと思われる内容の最高裁和解が成立した。中原支援の会のホームページに掲載されている和解条項をまとめるとつぎのようになる。
「我が国におけるより良い医療を実現するとの観点から和解が勧告され、医師不足や医師の過重負担を生じさせないことが国民の健康を守るために不可欠であることが確認されて、和解が成立した。」
すなわち、「医師の過労死の問題」は「医療安全の問題」であると指摘しているのである。医療安全を守るために医師の過重負担を制限しなさいと言っているのである。それが「より良い医療を実現させる」ことになるからである。
&#160;
（１）：「医療安全の問題」から「医師の過労死（過重労働）の問題」を切り捨てた平成18(2006)年の医療法改定。
平成18(2006)年に医療法の改定が行われ医療安全に関する条項が追加された。第6条の10をつぎに示す。なお、第6条の9、11、12には、医療安全に関する国、地方自治体の役割などが述べられている。
医療法第6条の10：「病院、診療所又は助産所の管理者は、厚生労働省令で定めるところにより、医療の安全を確保するための指針の策定、従事者に対する研修の実施その他の当該病院、診療所又は助産所における医療の安全を確保するための措置を講じなければならない。」
医療安全に関するこの医療法改定には、「過重労働がミスを呼ぶ」という視点が無い。「医療安全の問題」から「医師の過労死（過重労働）の問題」を切り捨てたのである。最高裁が指摘したのはこの点である。
改定後の医療法の下では、たとえ医療ミスが起こったとしても、法律を改定したことで官僚は免責される。そして「指針を策定し、従事者に対する研修の実施その他の措置」を講じておれば管理者も免責される。医療ミスが起こって責められるのは医師のみである。すなわちこの医療改定は、「病院の管理システムを利用して、医療の安全を医師に強制」しているのである。病院管理者を介した、医師に対する官僚統制と言わざるを得ない。医療安全に関するこの改定は、そもそもが「低」医療費政策による医師の「過重労働により医療ミスが増加した」ためである。そして一方的なこの医療法改定により医師に「医療ミスに対する責任」を押しつけさらなる過重労働を強いているのである。
最高裁が指摘したのはこの官僚統制の弊害である。「脱」官僚統制をめざす政府ならば当然この弊害を取り除くために医療法の「改正」に向かうだろう。医療安全の問題は全国民の問題である。すなわち超党派の問題である。「脱」官僚統制をめざす政府が率先して、超党派的に医療法改正に向かってほしい。
（２）：「より良い医療を実現させる」ために。
医療法の医療安全の条項に、「過重労働がミスを呼ぶ」という視点を追加することである。具体的には、医療法第6条へつぎの一項を追加することである。
「管理者は、医療の安全を確保するため、従事者の過重労働を予防する措置を講じなければならない。」
医療ミスが起こった場合、もし医師の過重労働が認められれば管理者の責任が問われることになる。必然的に管理者は医師の過重労働に気を配ることになり両者の一体感が出てくるであろう。また管理者の団体として一体となり厚労省とかけあえるようなシステムも必要になる。そのように第6条の国、自治体の役割を変更することである。その結果は医師の過労死の予防ともなり、「立ち去り」を予防し医療崩壊の阻止ともなるのである。「より良い医療を実現させる」ために必要なことである。
医療法へのこの条項の追加は、医療安全の考え方、医療倫理の考え方を「より良い医療を実現させる」方向へ向かわせることになるのである。
「To Err is Human; Building a Safer Health System」（「人は誰でも間違える；より安全な医療システムを目指して」）は1999年に米国立医学研究所(IOM)のリポートであり、医療安全の『基本的考え方』を変えたことで有名である。それまでの「個人の努力まかせ」から「個人の努力だけでなくシステムで補完しよう」への転換である。このレポートにもあるが、「First do no harm（まずは、患者を害するな）」がヒポクラテス以来の医療倫理の&#8220;いの一番&#8220;であり医療ミスは「患者を害する」ことにつながる。これまでの「個人まかせ」から「システムで補完しよう」への転換は医療倫理に適った転換である。
現在の医療法では、「病院の管理システムを利用して、医療の安全を医師に強制」しようとするものである。それを「個人の努力だけでなく、病院の管理システムを利用して補完」しようというものである。また、現在の医療法では「医療の安全を個々の病院の努力まかせ」にしているのである。それを「個々の病院の努力だけでなく、システム（たとえば法律）で補完しよう」というものである。そのようにして「より良い医療を実現させる」動きが出てくるのである。
和田耕治氏（北里大学医学部　衛生学公衆衛生学助教）は、週刊医学界新聞(2009.2.2)の「レポート；医師の健康に関する国際会議」の中で「医師の健康を守るためには、医師自身、医療機関、そして社会にそれぞれの役割がある」として、つぎのように述べている。
「医療機関は、組織として医師の健康をどう守るかを検討し、職場環境の改善や、労働時間の短縮、可能であれば医師を対象にした健康に関するプログラムを提供する。医師の健康を守ろうとする取り組みは、医師の確保やモチベーションの維持にもつながるであろう。」
上に述べた条項を追加することで、まさにこの内容が現実化するのである。
（３）：世界の情勢。
世界医師会が2005年に発刊した、World Medical Association Medical Ethics Manualの中につぎのような記載がある。日本医師会発行の「WMA医の倫理マニュアル」の翻訳より抜粋する。
「自分自身に対する責任(Responsibilities to oneself)」より：
「医師は、自分が自分自身や自分の家族に対しても責任を負っていることを忘れやすいものです。」そして「自己管理の第一次的な責任は、医師個人にあります。（後略）」しかしながら、「明らかにこのような（週60－80時間勤務もまれでなく、休暇は不必要な贅沢と考えるような）専門職としての仕事のペースに苦しむ医師もおり、その結果は、慢性的疲労から薬物乱用、自殺に至るまでさまざまです。疲労は医療ミスの重大な要因なので、健康を害した医師は患者にとっても危険です。
医師に健康なライフスタイルを奨励するとともに、患者の安全を確保する必要性から、国によっては、医師や研修医が働く時間数や交代勤務時間の長さに制限が設けられるようになっています。」
World Medical Association Medical Ethics Manualの発刊は2005年である。この時点でも、「国によっては」、医療安全と医師の過労（過重労働）とを同じ問題と捉えて対策をすでに取っているのである。平均寿命・健康寿命ともトップクラスを誇る日本では遅れているのである。日本の遅れの理由についてはMRIC no.215. (2010.6.20.発信)で発表しているので参考にしていただきたい。
(2010.7.25. 脱稿、MRICno.253掲載)

]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　「一般の過労死」については労働基準法により規定されている。しかし、「医師の過労死」については例外とされ、法律による明確な規定がない。その理由は「自己管理の第一次的な責任は、医師個人にある」という倫理問題と関係しているからである。そこで中原利郎医師の過労死裁判の行方を注目していたが、<u>現在の日本の現実から考えてこれしかないであろう</u>と思われる内容の最高裁和解が成立した。中原支援の会のホームページに掲載されている和解条項をまとめるとつぎのようになる。</p>
<p>「我が国におけるより良い医療を実現するとの観点から和解が勧告され、医師不足や医師の過重負担を生じさせないことが国民の健康を守るために不可欠であることが確認されて、和解が成立した。」</p>
<p>すなわち、「医師の過労死の問題」は「医療安全の問題」であると指摘しているのである。医療安全を守るために医師の過重負担を制限しなさいと言っているのである。それが「より良い医療を実現させる」ことになるからである。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="color: rgb(0, 0, 255);"><strong>（１）：「医療安全の問題」から「医師の過労死（過重労働）の問題」を切り捨てた平成18(2006)年の医療法改定。</strong></span></p>
<p>平成18(2006)年に医療法の改定が行われ医療安全に関する条項が追加された。第6条の10をつぎに示す。なお、第6条の9、11、12には、医療安全に関する国、地方自治体の役割などが述べられている。</p>
<p><span style="font-size: medium;"><strong>医療法第6条の10：「病院、診療所又は助産所の管理者は、厚生労働省令で定めるところにより、医療の安全を確保するための指針の策定、従事者に対する研修の実施その他の当該病院、診療所又は助産所における医療の安全を確保するための措置を講じなければならない。」</strong></span></p>
<p>医療安全に関するこの医療法改定には、<strong>「過重労働がミスを呼ぶ」</strong>という視点が無い。「医療安全の問題」から「医師の過労死（過重労働）の問題」を切り捨てたのである。最高裁が指摘したのはこの点である。</p>
<p>改定後の医療法の下では、たとえ医療ミスが起こったとしても、法律を改定したことで官僚は免責される。そして「指針を策定し、従事者に対する研修の実施その他の措置」を講じておれば管理者も免責される。医療ミスが起こって責められるのは医師のみである。すなわちこの医療改定は、「病院の管理システムを利用して、医療の安全を医師に強制」しているのである。病院管理者を介した、医師に対する官僚統制と言わざるを得ない。医療安全に関するこの改定は、そもそもが「低」医療費政策による医師の「過重労働により医療ミスが増加した」ためである。そして一方的なこの医療法改定により医師に「医療ミスに対する責任」を押しつけさらなる過重労働を強いているのである。</p>
<p>最高裁が指摘したのはこの官僚統制の弊害である。「脱」官僚統制をめざす政府ならば当然この弊害を取り除くために医療法の「改正」に向かうだろう。医療安全の問題は全国民の問題である。すなわち超党派の問題である。「脱」官僚統制をめざす政府が率先して、超党派的に医療法改正に向かってほしい。</p>
<p><span style="color: rgb(0, 0, 255);"><strong>（２）：「より良い医療を実現させる」ために。</strong></span></p>
<p>医療法の医療安全の条項に、<strong>「過重労働がミスを呼ぶ」</strong>という視点を追加することである。具体的には、医療法第6条へつぎの一項を追加することである。</p>
<p><span style="font-size: medium;"><strong>「管理者は、医療の安全を確保するため、従事者の過重労働を予防する措置を講じなければならない。」</strong></span></p>
<p>医療ミスが起こった場合、もし医師の過重労働が認められれば管理者の責任が問われることになる。必然的に管理者は医師の過重労働に気を配ることになり両者の一体感が出てくるであろう。また管理者の団体として一体となり厚労省とかけあえるようなシステムも必要になる。そのように第6条の国、自治体の役割を変更することである。その結果は医師の過労死の予防ともなり、「立ち去り」を予防し医療崩壊の阻止ともなるのである。「より良い医療を実現させる」ために必要なことである。</p>
<p>医療法へのこの条項の追加は、医療安全の考え方、医療倫理の考え方を「より良い医療を実現させる」方向へ向かわせることになるのである。</p>
<p>「To Err is Human; Building a Safer Health System」（「人は誰でも間違える；より安全な医療システムを目指して」）は1999年に米国立医学研究所(IOM)のリポートであり、医療安全の『基本的考え方』を変えたことで有名である。それまでの「個人の努力まかせ」から「個人の努力だけでなくシステムで補完しよう」への転換である。このレポートにもあるが、「First do no harm（まずは、患者を害するな）」がヒポクラテス以来の医療倫理の&ldquo;いの一番&ldquo;であり医療ミスは「患者を害する」ことにつながる。これまでの「個人まかせ」から「システムで補完しよう」への転換は医療倫理に適った転換である。</p>
<p>現在の医療法では、「病院の管理システムを利用して、医療の安全を医師に強制」しようとするものである。それを「個人の努力だけでなく、病院の管理システムを利用して補完」しようというものである。また、現在の医療法では「医療の安全を個々の病院の努力まかせ」にしているのである。それを「個々の病院の努力だけでなく、システム（たとえば法律）で補完しよう」というものである。そのようにして「より良い医療を実現させる」動きが出てくるのである。</p>
<p>和田耕治氏（北里大学医学部　衛生学公衆衛生学助教）は、週刊医学界新聞(2009.2.2)の「レポート；医師の健康に関する国際会議」の中で「医師の健康を守るためには、医師自身、医療機関、そして社会にそれぞれの役割がある」として、つぎのように述べている。</p>
<p>「医療機関は、組織として医師の健康をどう守るかを検討し、職場環境の改善や、労働時間の短縮、可能であれば医師を対象にした健康に関するプログラムを提供する。医師の健康を守ろうとする取り組みは、医師の確保やモチベーションの維持にもつながるであろう。」</p>
<p>上に述べた条項を追加することで、まさにこの内容が現実化するのである。</p>
<p><span style="color: rgb(0, 0, 255);"><strong>（３）：世界の情勢。</strong></span></p>
<p>世界医師会が2005年に発刊した、World Medical Association Medical Ethics Manualの中につぎのような記載がある。日本医師会発行の「WMA医の倫理マニュアル」の翻訳より抜粋する。</p>
<p>「自分自身に対する責任(Responsibilities to oneself)」より：</p>
<p>「医師は、自分が自分自身や自分の家族に対しても責任を負っていることを忘れやすいものです。」そして「自己管理の第一次的な責任は、医師個人にあります。（後略）」しかしながら、「明らかにこのような（週60－80時間勤務もまれでなく、休暇は不必要な贅沢と考えるような）専門職としての仕事のペースに苦しむ医師もおり、その結果は、慢性的疲労から薬物乱用、自殺に至るまでさまざまです。<u>疲労は医療ミスの重大な要因なので、健康を害した医師は患者にとっても危険です。</u></p>
<p>医師に健康なライフスタイルを奨励するとともに、<u>患者の安全を確保する必要性から</u>、国によっては、医師や研修医が働く時間数や交代勤務時間の長さに制限が設けられるようになっています。」</p>
<p>World Medical Association Medical Ethics Manualの発刊は2005年である。この時点でも、「国によっては」、医療安全と医師の過労（過重労働）とを同じ問題と捉えて対策をすでに取っているのである。平均寿命・健康寿命ともトップクラスを誇る日本では遅れているのである。日本の遅れの理由についてはMRIC no.215. (2010.6.20.発信)で発表しているので参考にしていただきたい。</p>
<p style="text-align: right;">(2010.7.25. 脱稿、MRICno.253掲載)</p>
<p style="text-align: center;"><a href="mailto:info@ahiraoka.com"><img alt="コラムへのご意見・ご相談はこちらへ" src="../../../images/mailto.gif" /></a></p>
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	</item>
		<item>
		<title>(13)「選定医療機関」制度と医療安全。</title>
		<link>http://www.ahiraoka.com/column/337/</link>
		<comments>http://www.ahiraoka.com/column/337/#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 09 Aug 2010 04:51:32 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[コラム]]></category>

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		<description><![CDATA[「政府、未承認薬を使用可能に　約200の医療機関で」というタイトルの記事が6月16日に報道された。これは、週刊東洋経済6月12日号の民主党新成長戦略の特集に掲載された仙谷官房長官のつぎの考え、「一定水準以上の病院では安全性、有効性が未確認な医療技術であっても医師と患者の選択に任せる」を具体化したものであろう。
「ドラッグ・ラグ」「デバイス・ラグ」を解消して世界レベルの医療を受けたい、与えたいということは患者・現場の医者の切なる願いである。それを叶えたいというのが上記の新戦略である。「私は能力と判断の限り患者に利益するとおもう養生法をとり、悪くて有害と知る方法を決してとらない。」これは「ヒポクラテスの誓い」の徒弟制度についての誓いに続く、医療に関する最初の誓いの言葉である。上記の新戦略はこの医療倫理の前半に適うことであり、大いに進めなければならない。しかし、つぎの二点が問題であり、これらの解決を図りつつ新戦略を進める必要がある。
第一は、「ヒポクラテスの誓い」の上記後半にあるように「患者を害さない」こと、すなわち医療安全の問題である。 
第二は、「病者に対しては唯病者を見るべし。貴賎貧富を顧みることなかれ。（後略）」（緒方洪庵「扶氏医戒之略」）の医療倫理を具体化した国民皆保険制度との関わりである。
（１）：医療安全との関わり。
「脱」官僚統制をめざす平成新政府は、医療先進国をも目指すらしいし、目指してほしいものである。そのためには「ドラッグ・ラグ」「デバイス・ラグ」を解消して医療内容を世界レベルにすることが必要である。そしてまた、医療安全を世界レベルに引き上げることも必要である。MRICに投稿中の「医療安全の『基本的考え方』に対する二つの障害」で詳しく述べたので、ここでは要点のみを述べる。
世界レベルとは、医療安全を「個人の努力まかせ」にせず「個人の努力だけでなくシステムで補完しよう」ということである。ご存じの「To Err is Human」という米国IOMのレポートがキッカケとなった考えである。医療ミスは「患者を害する」ことに通じる。戦後、世界の医療倫理観は、医療倫理の遵守を「個人の努力まかせ」にせず「個人の努力だけでなくシステムで補完しよう」へと変わってきた。この医療倫理観のもとに「個人の努力まかせ」にしない医療安全観が持ち込まれ、容易に「文化」となっているのである。これが世界レベルである。
日本ではいかがであろうか。医療現場では「患者を害さない」ために「To Err is Human」を実践しようと努力している。しかし、上記の医療安全観を「日本の文化」とするための障害が二つある。それは医療法第6条の10．と日本医師会の医療倫理観である。
まず医療法第6条の10．の構造である。国（政府、官僚）は病院管理職に、病院管理者は現場の医師に医療安全の責任を押し付ける構造、すなわち「病院の管理システムを利用して、個人に努力を強制」する構造（官僚統制の構造）になっているのである。また「個々の病院の努力まかせ」であり「個々の病院の努力を補完するシステム」は存在しない。
つぎに日本医師会の医療倫理観である。「医師の職業倫理規定」の序文では「倫理は社会的ルールと言えるが、基本的には個人的、内省的、非強制的なものであり、各個人が自覚をもってルールを認識しそれを遵守することが最も大切である（後略）」となっており、医療倫理遵守は「個人の努力まかせ」と言っているのである。医療安全観を世界レベルにするための障害である。
今回の「選定医療機関」制度（仮称）を見てみよう。もちろん具体的な内容を把握しているわけではないが、メディアと通じて見る限り、構造は国（政府、官僚）、病院管理者、現場の医師という従来の官僚統制の構造であろう。安全は個々の病院の努力まかせ、また個々の現場の医師まかせになっているのであろう。これらを世界レベルに持っていくためにはどうすればいいだろうか。
「選定医療機関」制度を「自律医療機関」制度（仮称）とすることである。国（政府、官僚）の責任は「自律と自浄機能を持った医療機関グループ」を認定することと「自律と自浄機能」がキッチリと機能しているかを監視することである。病院管理者の責任は現場の医師グループを認定することと医療安全を監視することである。それぞれの責任を明確にすることにより、現場の医師の、あるいは個々の病院の「個人の努力まかせ」だけでなく「システムで補完」できるのである。こうしてやっと世界レベルに近づくのである。
&#160;
（２）：国民皆保険制度との関わり。 
「戦後の復興」を目指した昭和新政府は官僚統制を必要とした。昭和33-34年という早期に国民皆保険体制が導入されたのは官僚統制のメリットである。そして医療倫理に適った国民皆保険体制は、ぜひともさらに拡大していきたいものである。
「自由診療」による高額の医療費問題、「混合診療全面解禁」による国民皆保険体制の破綻、「ドラッグ・ラグ」「デバイス・ラグ」をもたらす承認問題、これらを解決するために出されてきたのが、今回の「選定医療機関」制度（仮称）であろう。それぞれの問題点の一部解決になっていることは評価できる点である。
さらに国民の理解を得るためには、国民皆保険体制のさらなる拡大につなげることが必要である。それには「自律医療機関」制度（仮称）とすること、そしてグループの診療内容を医薬品・医療機器の承認に繋げることである。すなわち診療内容は「医師主導の治験」であり、その費用は患者負担である。患者の負担は二重となる。第一は「治験」の対象となることの医学的負担であり、第二は承認さらに国民皆保険体制への組み込みのための医療費負担である。ともにボランティアである。そうすれば「一部金持ちのための医療」ではなくなり、国民も納得するのではないだろうか。
（2010.6．19．脱稿、MRIC no.222掲載）

]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>「政府、未承認薬を使用可能に　約200の医療機関で」というタイトルの記事が6月16日に報道された。これは、週刊東洋経済6月12日号の民主党新成長戦略の特集に掲載された仙谷官房長官のつぎの考え、「一定水準以上の病院では安全性、有効性が未確認な医療技術であっても医師と患者の選択に任せる」を具体化したものであろう。</p>
<p>「ドラッグ・ラグ」「デバイス・ラグ」を解消して世界レベルの医療を受けたい、与えたいということは患者・現場の医者の切なる願いである。それを叶えたいというのが上記の新戦略である。「私は能力と判断の限り患者に利益するとおもう養生法をとり、悪くて有害と知る方法を決してとらない。」これは「ヒポクラテスの誓い」の徒弟制度についての誓いに続く、医療に関する最初の誓いの言葉である。上記の新戦略はこの医療倫理の前半に適うことであり、大いに進めなければならない。しかし、つぎの二点が問題であり、これらの解決を図りつつ新戦略を進める必要がある。</p>
<p>第一は、「ヒポクラテスの誓い」の上記後半にあるように「患者を害さない」こと、すなわち医療安全の問題である。 <br />
第二は、「病者に対しては唯病者を見るべし。貴賎貧富を顧みることなかれ。（後略）」（緒方洪庵「扶氏医戒之略」）の医療倫理を具体化した国民皆保険制度との関わりである。</p>
<p><span style="color: rgb(0, 0, 255);"><strong>（１）：医療安全との関わり。</strong></span></p>
<p>「脱」官僚統制をめざす平成新政府は、医療先進国をも目指すらしいし、目指してほしいものである。そのためには「ドラッグ・ラグ」「デバイス・ラグ」を解消して医療内容を世界レベルにすることが必要である。そしてまた、医療安全を世界レベルに引き上げることも必要である。MRICに投稿中の「医療安全の『基本的考え方』に対する二つの障害」で詳しく述べたので、ここでは要点のみを述べる。</p>
<p>世界レベルとは、医療安全を「個人の努力まかせ」にせず「個人の努力だけでなくシステムで補完しよう」ということである。ご存じの「To Err is Human」という米国IOMのレポートがキッカケとなった考えである。医療ミスは「患者を害する」ことに通じる。戦後、世界の医療倫理観は、医療倫理の遵守を「個人の努力まかせ」にせず「個人の努力だけでなくシステムで補完しよう」へと変わってきた。この医療倫理観のもとに「個人の努力まかせ」にしない医療安全観が持ち込まれ、容易に「文化」となっているのである。これが世界レベルである。</p>
<p>日本ではいかがであろうか。医療現場では「患者を害さない」ために「To Err is Human」を実践しようと努力している。しかし、上記の医療安全観を「日本の文化」とするための障害が二つある。それは医療法第6条の10．と日本医師会の医療倫理観である。</p>
<p>まず医療法第6条の10．の構造である。国（政府、官僚）は病院管理職に、病院管理者は現場の医師に医療安全の責任を押し付ける構造、すなわち「病院の管理システムを利用して、個人に努力を強制」する構造（官僚統制の構造）になっているのである。また「個々の病院の努力まかせ」であり「個々の病院の努力を補完するシステム」は存在しない。</p>
<p>つぎに日本医師会の医療倫理観である。「医師の職業倫理規定」の序文では「倫理は社会的ルールと言えるが、基本的には個人的、内省的、非強制的なものであり、各個人が自覚をもってルールを認識しそれを遵守することが最も大切である（後略）」となっており、医療倫理遵守は「個人の努力まかせ」と言っているのである。医療安全観を世界レベルにするための障害である。</p>
<p>今回の「選定医療機関」制度（仮称）を見てみよう。もちろん具体的な内容を把握しているわけではないが、メディアと通じて見る限り、構造は国（政府、官僚）、病院管理者、現場の医師という従来の官僚統制の構造であろう。安全は個々の病院の努力まかせ、また個々の現場の医師まかせになっているのであろう。これらを世界レベルに持っていくためにはどうすればいいだろうか。</p>
<p>「選定医療機関」制度を「自律医療機関」制度（仮称）とすることである。国（政府、官僚）の責任は「自律と自浄機能を持った医療機関グループ」を認定することと「自律と自浄機能」がキッチリと機能しているかを監視することである。病院管理者の責任は現場の医師グループを認定することと医療安全を監視することである。それぞれの責任を明確にすることにより、現場の医師の、あるいは個々の病院の「個人の努力まかせ」だけでなく「システムで補完」できるのである。こうしてやっと世界レベルに近づくのである。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="color: rgb(0, 0, 255);"><strong>（２）：国民皆保険制度との関わり。 </strong></span></p>
<p>「戦後の復興」を目指した昭和新政府は官僚統制を必要とした。昭和33-34年という早期に国民皆保険体制が導入されたのは官僚統制のメリットである。そして医療倫理に適った国民皆保険体制は、ぜひともさらに拡大していきたいものである。</p>
<p>「自由診療」による高額の医療費問題、「混合診療全面解禁」による国民皆保険体制の破綻、「ドラッグ・ラグ」「デバイス・ラグ」をもたらす承認問題、これらを解決するために出されてきたのが、今回の「選定医療機関」制度（仮称）であろう。それぞれの問題点の一部解決になっていることは評価できる点である。</p>
<p>さらに国民の理解を得るためには、国民皆保険体制のさらなる拡大につなげることが必要である。それには「自律医療機関」制度（仮称）とすること、そしてグループの診療内容を医薬品・医療機器の承認に繋げることである。すなわち診療内容は「医師主導の治験」であり、その費用は患者負担である。患者の負担は二重となる。第一は「治験」の対象となることの医学的負担であり、第二は承認さらに国民皆保険体制への組み込みのための医療費負担である。ともにボランティアである。そうすれば「一部金持ちのための医療」ではなくなり、国民も納得するのではないだろうか。</p>
<p style="text-align: right;">（2010.6．19．脱稿、MRIC no.222掲載）</p>
<p style="text-align: center;"><a href="mailto:info@ahiraoka.com"><img src="../../../images/mailto.gif" alt="コラムへのご意見・ご相談はこちらへ" /></a></p>
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		<title>(12)医療安全の『基本的考え方』に対する二つの障害</title>
		<link>http://www.ahiraoka.com/column/334/</link>
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		<pubDate>Mon, 09 Aug 2010 04:47:13 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[コラム]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.ahiraoka.com/?p=334</guid>
		<description><![CDATA[「過重労働がミスを呼ぶ」という視点の無い医療法第6条と、医療倫理の遵守は「個人の努力まかせ」とする日本医師会の医療倫理観。
「To Err is Human; Building a Safer Health System」（「人は誰でも間違える；より安全な医療システムを目指して」）は1999年に米国立医学研究所(IOM)のリポートであり、医療安全の『基本的考え方』を変えたことで有名である。それまでの「個人の努力まかせ」から「個人の努力だけでなくシステムで補完しよう」への転換である。
このレポートにもあるが、「First do no harm（まずは、患者を害するな）」がヒポクラテス以来の医療倫理の&#8220;いの一番&#8220;であり医療ミスは「患者を害する」ことにつながる。これまでの「個人まかせ」から「システムで補完しよう」への転換は医療倫理に適った転換である。 医療の質・安全学会副理事長の上原鳴夫氏らを中心に、この新しい『基本的考え方』がわが国でも広められ医療安全に対する意識が高まってきている。しかし、氏が望まれているように、私も望むところであるが、この考え方を「日本の文化」とするためには少なくとも二つの障害がある。それは医療法第6条と日本医師会の医療倫理観である。
１：医療法第6条の追加条項。
平成18(2006)年に医療法の改定が行われ医療安全に関する条項が追加された。第6条の10をつぎに示す。なお、第6条の9、11、12には、医療安全に関する国、地方自治体の役割などが述べられている。
医療法第6条の10：「病院、診療所又は助産所の管理者は、厚生労働省令で定めるところにより、医療の安全を確保するための指針の策定、従事者に対する研修の実施その他の当該病院、診療所又は助産所における医療の安全を確保するための措置を講じなければならない。」
つぎに問題点を述べる。まず、この改定が行われたのはIOMリポートが発表されてすでに7年たってからである。世界はIOMリポートに合わせて医療の安全確保に動いている時期である。つぎにその内容である。「個人の努力だけでなく、システムで補完」できるような改定であろうか、むしろ逆である。「病院の管理システムを利用して、医療の安全を従事者に強制」しているのである。病院管理者を介した、医療従事者に対する官僚統制と言わざるを得ない。なぜなら官僚は管理者に、管理者は従事者に、それぞれ医療ミスの責任を負わせる構造になっているからである。たとえ医療ミスが起こったとしても、法律を改定したことで官僚は免責され、指針を策定し、研修の実施その他の措置を講じておれば管理者は免責される。医療ミスが起こって責められるのは従事者のみである。
医療安全に関するこの医療法改定は、そもそもが「低」医療費政策による医療従事者の「過重労働により医療ミスが増加した」ためである。そして一方的な医療法改定により医療従事者に「医療ミスに対する責任」のプレッシャーを押しつけているのである。医療現場では「患者を害さない」ために「個人の努力だけでなく、システムで補完」しようと努力しているのであるが、それまでの過重労働に加えて、さらなる過重労働となっているのである。医療従事者の犠牲を強いる医療法第6条の追加条項が、医療安全の新しい考え方を「日本の文化」とするための障害となっているのである。
医療安全に関するこの医療法改定には、「過重労働がミスを呼ぶ」という視点が無い。また「個々の病院の努力まかせ」でありそれを「システム（たとえば法律）で補完しよう」という視点が欠けている。これらを改善するためには、医療法第6条につぎの項目を加えることである。
医療法第6条への追加項目：「管理者は、医療の安全を確保するため、従事者の過重労働を予防する措置を講じなければならない。」
医療ミスが起こった場合、もし従事者の過重労働が認められれば管理者の責任が問われることになる。必然的に管理者は従事者の過重労働に気を配ることになり両者の一体感が出てくるであろう。また管理者の団体として一体となり厚労省とかけあえるようになる。その結果は医療従事者の過労死の予防ともなり、「立ち去り」を予防し医療崩壊の阻止ともなるのである。
２．日本医師会の医療倫理観。
日本医師会の「医師の職業倫理指針」平成20年改訂版の序文では、医療倫理観について次のように述べている。
「倫理は社会的ルールといえるが、基本的には個人的、内省的、非強制的なものであり、各個人が自覚を持ってルールを認識しそれを遵守することが最も大切であることは言うまでもなく、この倫理指針がそのお役に立てば幸甚である。」 
日本医師会の医療倫理観では、医療倫理の遵守は「個人の努力まかせ」である。それでは世界の医療倫理観ではどうであろうか。
戦後の世界の医療倫理観をリードしてきたのは世界医師会であろう。その基礎にあるのは、ナチス政権下のホロコースト（組織的大量虐殺）において多くの医師が人権侵害を犯したことに対する反省である。第一にしたことは、医療倫理の&#8220;いの一番&#8221;をそれまでの「患者を害するな」から「患者の人権擁護」へと変えたことである。それを宣言したのがヘルシンキ宣言などである。第二に、「個人の努力まかせ」では人権侵害を防げなかった反省から医療倫理の遵守は「個人の努力だけでなく、システムで補完しよう」としたのである。それを宣言したのが「Professional autonomy and self-regulation」に関するマドリッド宣言などである。医療安全では主に人とモノ（医療機器など）のシステム、医療倫理では人と人のシステムという違いはあるが考え方は同じである。マドリッド宣言の内容を要約すると以下のようになる。

患者への人権侵害は、医師から起こる場合と医師以外（たとえば「時の権力」、経済的圧力、暴力的圧力など）から起こる場合とに分けられる。
医師から患者への人権侵害に対して「個人の努力だけでなく、システムで補完」して擁護するためには、医師集団内部に「医師間相互評価(peer review)」のシステムを作ること、これがself-regulation（自浄機能）の意味である。
医師以外から患者への人権侵害に対して「個人の努力だけでなく、システムで補完」して擁護するためには、医師集団として対応することである。医師集団がたとえば「時の権力」に依存しておれば「時の権力」に対応できない。対応できるためには医師集団が人権侵害を起こしているものから自律している必要がある。何ものからも自律（autonomy）していることを宣言（profess）すること、これがprofessional autonomy（適当な和訳はない）の意味である。
この考えを各国の医師会（医師集団）が受け入れるように勧めているのがマドリッド宣言である。

Autonomyとself-regulationとはコインの裏表のようなものであり、概念として分けることはできない。しかし現実のシステムにすると上述のように分かれるということである。一対のシステムであり、どちらか片方だけ実行するということは成立しない。
欧米諸国では世界医師会の推奨を受け入れて「Professional autonomy and self-regulation」のシステムを作っているのである。アメリカでこのような医療倫理観を背景に新しい医療安全の『基本的考え方』（上述のIOMリポート）が出てきたのであり、この考えが欧米では文化として受け入れられやすいことは容易に理解できるのである。
日本医師会の医療倫理観では医療倫理の遵守は「個人の努力まかせ」である。アメリカから入ってきた新しい医療安全の『基本的考え方』は「個人の努力だけでなく、システムで補完」することの重要性を説いている。この新しい考え方を日本で広め、さらに「日本の文化」とするためには日本医師会の医療倫理観が障害となるのである。時代遅れの日本医師会の医療倫理観を、マドリッド宣言に示された新しい医療倫理観に変えなければならない。
（2010.6.12.脱稿、MRIC no.215掲載）

]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>「過重労働がミスを呼ぶ」という視点の無い医療法第6条と、医療倫理の遵守は「個人の努力まかせ」とする日本医師会の医療倫理観。</strong></p>
<p>「To Err is Human; Building a Safer Health System」（「人は誰でも間違える；より安全な医療システムを目指して」）は1999年に米国立医学研究所(IOM)のリポートであり、医療安全の『基本的考え方』を変えたことで有名である。それまでの「個人の努力まかせ」から「個人の努力だけでなくシステムで補完しよう」への転換である。</p>
<p>このレポートにもあるが、「First do no harm（まずは、患者を害するな）」がヒポクラテス以来の医療倫理の&ldquo;いの一番&ldquo;であり医療ミスは「患者を害する」ことにつながる。これまでの「個人まかせ」から「システムで補完しよう」への転換は医療倫理に適った転換である。 医療の質・安全学会副理事長の上原鳴夫氏らを中心に、この新しい『基本的考え方』がわが国でも広められ医療安全に対する意識が高まってきている。しかし、氏が望まれているように、私も望むところであるが、この考え方を「日本の文化」とするためには少なくとも二つの障害がある。それは医療法第6条と日本医師会の医療倫理観である。</p>
<p><span style="color: rgb(0, 0, 255);"><strong>１：医療法第6条の追加条項。</strong></span></p>
<p>平成18(2006)年に医療法の改定が行われ医療安全に関する条項が追加された。第6条の10をつぎに示す。なお、第6条の9、11、12には、医療安全に関する国、地方自治体の役割などが述べられている。</p>
<p><span style="font-size: medium;"><strong>医療法第6条の10：「病院、診療所又は助産所の管理者は、厚生労働省令で定めるところにより、医療の安全を確保するための指針の策定、従事者に対する研修の実施その他の当該病院、診療所又は助産所における医療の安全を確保するための措置を講じなければならない。」</strong></span></p>
<p>つぎに問題点を述べる。まず、この改定が行われたのはIOMリポートが発表されてすでに7年たってからである。世界はIOMリポートに合わせて医療の安全確保に動いている時期である。つぎにその内容である。「個人の努力だけでなく、システムで補完」できるような改定であろうか、むしろ逆である。「病院の管理システムを利用して、医療の安全を従事者に強制」しているのである。病院管理者を介した、医療従事者に対する官僚統制と言わざるを得ない。なぜなら官僚は管理者に、管理者は従事者に、それぞれ医療ミスの責任を負わせる構造になっているからである。たとえ医療ミスが起こったとしても、法律を改定したことで官僚は免責され、指針を策定し、研修の実施その他の措置を講じておれば管理者は免責される。医療ミスが起こって責められるのは従事者のみである。</p>
<p>医療安全に関するこの医療法改定は、そもそもが「低」医療費政策による医療従事者の「過重労働により医療ミスが増加した」ためである。そして一方的な医療法改定により医療従事者に「医療ミスに対する責任」のプレッシャーを押しつけているのである。医療現場では「患者を害さない」ために「個人の努力だけでなく、システムで補完」しようと努力しているのであるが、それまでの過重労働に加えて、さらなる過重労働となっているのである。医療従事者の犠牲を強いる医療法第6条の追加条項が、医療安全の新しい考え方を「日本の文化」とするための障害となっているのである。</p>
<p>医療安全に関するこの医療法改定には、<strong>「過重労働がミスを呼ぶ」</strong>という視点が無い。また「個々の病院の努力まかせ」でありそれを「システム（たとえば法律）で補完しよう」という視点が欠けている。これらを改善するためには、医療法第6条につぎの項目を加えることである。</p>
<p><span style="font-size: medium;"><strong>医療法第6条への追加項目：「管理者は、医療の安全を確保するため、従事者の過重労働を予防する措置を講じなければならない。」</strong></span></p>
<p>医療ミスが起こった場合、もし従事者の過重労働が認められれば管理者の責任が問われることになる。必然的に管理者は従事者の過重労働に気を配ることになり両者の一体感が出てくるであろう。また管理者の団体として一体となり厚労省とかけあえるようになる。その結果は医療従事者の過労死の予防ともなり、「立ち去り」を予防し医療崩壊の阻止ともなるのである。</p>
<p><span style="color: rgb(0, 0, 255);"><strong>２．日本医師会の医療倫理観。</strong></span></p>
<p>日本医師会の「医師の職業倫理指針」平成20年改訂版の序文では、医療倫理観について次のように述べている。<br />
<span style="font-size: medium;"><strong>「倫理は社会的ルールといえるが、基本的には個人的、内省的、非強制的なものであり、各個人が自覚を持ってルールを認識しそれを遵守することが最も大切であることは言うまでもなく、この倫理指針がそのお役に立てば幸甚である。」 </strong></span></p>
<p>日本医師会の医療倫理観では、医療倫理の遵守は「個人の努力まかせ」である。それでは世界の医療倫理観ではどうであろうか。<br />
戦後の世界の医療倫理観をリードしてきたのは世界医師会であろう。その基礎にあるのは、ナチス政権下のホロコースト（組織的大量虐殺）において多くの医師が人権侵害を犯したことに対する反省である。第一にしたことは、医療倫理の&ldquo;いの一番&rdquo;をそれまでの「患者を害するな」から「患者の人権擁護」へと変えたことである。それを宣言したのがヘルシンキ宣言などである。第二に、「個人の努力まかせ」では人権侵害を防げなかった反省から医療倫理の遵守は「個人の努力だけでなく、システムで補完しよう」としたのである。それを宣言したのが「Professional autonomy and self-regulation」に関するマドリッド宣言などである。医療安全では主に人とモノ（医療機器など）のシステム、医療倫理では人と人のシステムという違いはあるが考え方は同じである。マドリッド宣言の内容を要約すると以下のようになる。</p>
<ol>
<li><strong>患者への人権侵害</strong>は、医師から起こる場合と医師以外（たとえば「時の権力」、経済的圧力、暴力的圧力など）から起こる場合とに分けられる。</li>
<li>医師から患者への人権侵害に対して<strong>「個人の努力だけでなく、システムで補完」</strong>して擁護するためには、医師集団内部に「医師間相互評価(peer review)」のシステムを作ること、これがself-regulation（自浄機能）の意味である。</li>
<li>医師以外から患者への人権侵害に対して<strong>「個人の努力だけでなく、システムで補完」</strong>して擁護するためには、医師集団として対応することである。医師集団がたとえば「時の権力」に依存しておれば「時の権力」に対応できない。対応できるためには医師集団が人権侵害を起こしているものから自律している必要がある。何ものからも自律（autonomy）していることを宣言（profess）すること、これがprofessional autonomy（適当な和訳はない）の意味である。</li>
<li>この考えを各国の医師会（医師集団）が受け入れるように勧めているのがマドリッド宣言である。</li>
</ol>
<p>Autonomyとself-regulationとはコインの裏表のようなものであり、概念として分けることはできない。しかし現実のシステムにすると上述のように分かれるということである。一対のシステムであり、どちらか片方だけ実行するということは成立しない。</p>
<p>欧米諸国では世界医師会の推奨を受け入れて「Professional autonomy and self-regulation」のシステムを作っているのである。アメリカでこのような医療倫理観を背景に新しい医療安全の『基本的考え方』（上述のIOMリポート）が出てきたのであり、この考えが欧米では文化として受け入れられやすいことは容易に理解できるのである。</p>
<p>日本医師会の医療倫理観では医療倫理の遵守は「個人の努力まかせ」である。アメリカから入ってきた新しい医療安全の『基本的考え方』は「個人の努力だけでなく、システムで補完」することの重要性を説いている。この新しい考え方を日本で広め、さらに「日本の文化」とするためには日本医師会の医療倫理観が障害となるのである。時代遅れの日本医師会の医療倫理観を、マドリッド宣言に示された新しい医療倫理観に変えなければならない。</p>
<p style="text-align: right;">（2010.6.12.脱稿、MRIC no.215掲載）</p>
<p style="text-align: center;"><a href="mailto:info@ahiraoka.com"><img alt="コラムへのご意見・ご相談はこちらへ" src="../../../images/mailto.gif" /></a></p>
]]></content:encoded>
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	</item>
		<item>
		<title>(11)日本内科学会・専門医部会の医療倫理観の問題点。</title>
		<link>http://www.ahiraoka.com/column/331/</link>
		<comments>http://www.ahiraoka.com/column/331/#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 09 Aug 2010 04:27:01 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[コラム]]></category>

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		<description><![CDATA[はじめに
日本内科学会誌の専門医部会の項では、本年1月号よりシリーズ「指導医のために：プロフェッショナリズム」を取り上げている。第一回は大生定義氏の「プロフェッショナル：教育・研究・実地医療でその求められる科学性・人間性・社会性」（１）であるが、その医療倫理観には医師集団の医療倫理観としては以下のような問題点があり、今後の日本の医師集団の医療倫理観をミスリードする可能性を持っている。第一に、緒方洪庵「扶氏医戒之略」についての無理解である。第二に、世界医師会の「Professional autonomy and self-regulation」に関するマドリッド宣言に対する無理解ないし無視である。第三に、「理想」の形として挙げている欧米内科学会から出された内科医師憲章(Medical Professionalism in the New Millennium: A Physician Charter：以下、「内科医師憲章」)の、成立の背景の無理解である。それぞれについて以下に述べる。
１：緒方洪庵「扶氏医戒之略」についての無理解。
氏は「この姿勢（パターナリズムのスタンスのこと；筆者）は、日本では、西洋医学が入ってきても緒方洪庵がまとめた『扶氏医戒之略』でも伺えるように昭和になるまでこれがずっと続いていた。」と述べて、「扶氏医戒之略」に含まれる医療倫理観を全否定しているようである。氏は第３章にある次の言葉の意味を御存じなのであろうか。
「其術を行ふに当ては病者を以て正鵠とすべし。決して弓矢となすことなかれ。」（緒方洪庵「扶氏医戒之略」より） 
ドイツ人医師、フーフェラント(1762-1836)は「医学必携」の巻末に「医師の義務論」を収めた。そのオランダ語訳である「医の倫理」が江戸末期の日本にもたらされ、その全和訳が杉田成卿の「医戒」である。「医戒」を参考にして緒方洪庵が抄訳したのが「扶氏医戒之略」である。扶氏とはフーフェラントのこと、医戒とは杉田成卿の「医戒」のこと、略とはその抄訳のことである。「扶氏医戒之略」の第３章の「其術を行ふに当ては病者を以て正鵠とすべし。決して弓矢となすことなかれ。」に該当する、フーフェラント「医の倫理」の記述内容は次のようになる。
「医師は患者を決して手段として見るのではなく、常に目的として見なければなりません。つまり患者を生物実験の単なる対象として、あるいは単なる医術の対象として見るのではなく、患者を人間として、自然そのものの最高目的として見なければならないということであります。」（フーフェラント「医の倫理」（２）より） 
この考えは、まさに世界医師会の「ヘルシンキ宣言」の内容に通じるものではないだろうか。フーフェラントはこの考えをカントの道徳哲学から学んでいるの（２）。カントは次のように述べている。
「君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に存する人間性を、常に同時に目的として取り扱い、決して単なる手段として取り扱わないように行為せよ。」（カント「道徳形而上学原論」より）
カントの道徳哲学の中心をなすこの「人格、人間性」の考えが、フーフェラントの医療倫理観となり、「患者の人権擁護」を第一とする戦後の世界の医療倫理観にも繋がっているのである。
カントのこの考えが、フーフェラントの医療倫理観として江戸末期の日本にも伝わったのである。緒方洪庵の適塾で学んだ福沢諭吉に、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。」と言わしめたのは、「扶氏医戒之略」を介してカントのこの考えが及んでいたからではないだろうか。いずれにしろ、残念ながら戦後の日本の医療倫理観は、「患者の人権擁護」を第一とする戦後の世界の医療倫理観に後れを取っているのである。その理由の一つが、氏のように、パターナリズムのスタンスにあるとして「扶氏医戒之略」に含まれる医療倫理観を全否定したためと考えられるのである。
ちなみに、「扶氏医戒之略」の第3章を冒頭に回し、パターナリズムの部分を削除し、その他の内容を現在の医療状況にあわせると、「内科医師憲章」の内容となるのである。年代順に考えると、「内科医師憲章」を作成するときにフーフェラントの「医の倫理」を参考にしたであろうことが窺えるのである。
２：世界医師会の「Professional autonomy and self-regulation」に関するマドリッド宣言に対する無理解ないし無視。
氏はシリーズの第一回に当たり、医師のプロフェッショナリズムについて概説している。しかし医師のプロフェッショナリズムにとって最重要と思われるマドリッド宣言についてはまったく言及していない。これはマドリッド宣言に対する無理解ないしはこれを無視したものと考えられる。
戦後の世界の医療倫理観をリードしてきたのは世界医師会である。その医療倫理観の基礎にあるのは、ナチス政権下のホロコースト（組織的な大量虐殺）において多数の医師が人権侵害を犯したことに対する反省である。それまでの医療倫理観と異なるのは、第一に、医療倫理のトップがヒポクラテス以来の「First do no harm（患者を害するな）」から「患者の人権擁護」になったこと、第二に、医療倫理の遵守を「個人の努力任せ」では守れなかった反省から「個人の努力だけでなく、システムで補完」するようになったことである。そして患者の人権擁護をシステムで補完するために考えられたのが「professional autonomy and self-regulation」ということになる。要約すると次のようになる。

患者への人権侵害は、医師から起こる場合と、医師以外（たとえば「時の権力」、経済的圧力、暴力的圧力など）から起こる場合とに分けられる。
医師から患者への人権侵害に対して、「個人の努力だけでなく、システムで補完」するためには、医師集団内部に「医師間相互評価(peer review)」のシステムを作ること、これがself-regulation（自浄機能）の意味である。
医師以外から患者への人権侵害に対して、「個人の努力だけでなく、システムで補完」するためには、医師集団として対応することである。医師集団がたとえば「時の権力」に依存していれば「時の権力」に対応できない。対応できるためには医師集団が患者の人権侵害を起こしているものから自律している必要がある。何ものからも自律（autonomy）していることを宣言（profess）することである。これがprofessional autonomy（適当な和訳はない）の意味である。
この考えを各国の医師会（医師集団）が受け入れるように勧めているのが、世界医師会の「professional autonomy and self-regulation」に関するマドリッド宣言である。

AutonomyのルーツはカントのAutonomieである。Autonomyとself-regulationとはコインの裏表のようなものである。概念として分けることはできない。しかし現実のシステムにすると上述のように分かれるということである。Autonomyとself-regulation のシステムは一対のシステムである。どちらか片方だけ実行するということは成立しないのである。
「内科医師憲章」でも最初にprofessional autonomyを述べ最後にself-regulationを述べている。Professional autonomyを述べている個所は、Fundamental Principles. Principle of primacy of patient welfare.の「Market forces, societal pressures, and administrative exigencies must not compromise this principle.」である。「Market forces, societal pressures, and administrative exigencies」からのautonomyを「must [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><span style="color: rgb(0, 0, 255);"><strong>はじめに</strong></span></p>
<p>日本内科学会誌の専門医部会の項では、本年1月号よりシリーズ「指導医のために：プロフェッショナリズム」を取り上げている。第一回は大生定義氏の「プロフェッショナル：教育・研究・実地医療でその求められる科学性・人間性・社会性」（１）であるが、その医療倫理観には医師集団の医療倫理観としては以下のような問題点があり、今後の日本の医師集団の医療倫理観をミスリードする可能性を持っている。第一に、緒方洪庵「扶氏医戒之略」についての無理解である。第二に、世界医師会の「Professional autonomy and self-regulation」に関するマドリッド宣言に対する無理解ないし無視である。第三に、「理想」の形として挙げている欧米内科学会から出された内科医師憲章(Medical Professionalism in the New Millennium: A Physician Charter：以下、「内科医師憲章」)の、成立の背景の無理解である。それぞれについて以下に述べる。</p>
<p><strong><span style="color: rgb(0, 0, 255);">１：緒方洪庵「扶氏医戒之略」についての無理解。</span></strong></p>
<p>氏は「この姿勢（パターナリズムのスタンスのこと；筆者）は、日本では、西洋医学が入ってきても緒方洪庵がまとめた『扶氏医戒之略』でも伺えるように昭和になるまでこれがずっと続いていた。」と述べて、「扶氏医戒之略」に含まれる医療倫理観を全否定しているようである。氏は第３章にある次の言葉の意味を御存じなのであろうか。</p>
<p><span style="font-size: medium;"><strong>「其術を行ふに当ては病者を以て正鵠とすべし。決して弓矢となすことなかれ。」（緒方洪庵「扶氏医戒之略」より） </strong></span></p>
<p>ドイツ人医師、フーフェラント(1762-1836)は「医学必携」の巻末に「医師の義務論」を収めた。そのオランダ語訳である「医の倫理」が江戸末期の日本にもたらされ、その全和訳が杉田成卿の「医戒」である。「医戒」を参考にして緒方洪庵が抄訳したのが「扶氏医戒之略」である。扶氏とはフーフェラントのこと、医戒とは杉田成卿の「医戒」のこと、略とはその抄訳のことである。「扶氏医戒之略」の第３章の「其術を行ふに当ては病者を以て正鵠とすべし。決して弓矢となすことなかれ。」に該当する、フーフェラント「医の倫理」の記述内容は次のようになる。</p>
<p><span style="font-size: medium;"><strong>「医師は患者を決して手段として見るのではなく、常に目的として見なければなりません。つまり患者を生物実験の単なる対象として、あるいは単なる医術の対象として見るのではなく、患者を人間として、自然そのものの最高目的として見なければならないということであります。」（フーフェラント「医の倫理」（２）より） </strong></span></p>
<p>この考えは、まさに世界医師会の「ヘルシンキ宣言」の内容に通じるものではないだろうか。フーフェラントはこの考えをカントの道徳哲学から学んでいるの（２）。カントは次のように述べている。</p>
<p><span style="font-size: medium;"><strong>「君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に存する人間性を、常に同時に目的として取り扱い、決して単なる手段として取り扱わないように行為せよ。」（カント「道徳形而上学原論」より）</strong></span></p>
<p>カントの道徳哲学の中心をなすこの「人格、人間性」の考えが、フーフェラントの医療倫理観となり、「患者の人権擁護」を第一とする戦後の世界の医療倫理観にも繋がっているのである。<br />
カントのこの考えが、フーフェラントの医療倫理観として江戸末期の日本にも伝わったのである。緒方洪庵の適塾で学んだ福沢諭吉に、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。」と言わしめたのは、「扶氏医戒之略」を介してカントのこの考えが及んでいたからではないだろうか。いずれにしろ、残念ながら戦後の日本の医療倫理観は、「患者の人権擁護」を第一とする戦後の世界の医療倫理観に後れを取っているのである。その理由の一つが、氏のように、パターナリズムのスタンスにあるとして「扶氏医戒之略」に含まれる医療倫理観を全否定したためと考えられるのである。<br />
ちなみに、「扶氏医戒之略」の第3章を冒頭に回し、パターナリズムの部分を削除し、その他の内容を現在の医療状況にあわせると、「内科医師憲章」の内容となるのである。年代順に考えると、「内科医師憲章」を作成するときにフーフェラントの「医の倫理」を参考にしたであろうことが窺えるのである。</p>
<p><span style="font-size: medium;"><span style="color: rgb(0, 0, 255);"><strong>２：世界医師会の「Professional autonomy and self-regulation」に関するマドリッド宣言に対する無理解ないし無視。</strong></span></span></p>
<p>氏はシリーズの第一回に当たり、医師のプロフェッショナリズムについて概説している。しかし医師のプロフェッショナリズムにとって最重要と思われるマドリッド宣言についてはまったく言及していない。これはマドリッド宣言に対する無理解ないしはこれを無視したものと考えられる。</p>
<p>戦後の世界の医療倫理観をリードしてきたのは世界医師会である。その医療倫理観の基礎にあるのは、ナチス政権下のホロコースト（組織的な大量虐殺）において多数の医師が人権侵害を犯したことに対する反省である。それまでの医療倫理観と異なるのは、第一に、医療倫理のトップがヒポクラテス以来の「First do no harm（患者を害するな）」から「患者の人権擁護」になったこと、第二に、医療倫理の遵守を「個人の努力任せ」では守れなかった反省から「個人の努力だけでなく、システムで補完」するようになったことである。そして患者の人権擁護をシステムで補完するために考えられたのが「professional autonomy and self-regulation」ということになる。要約すると次のようになる。</p>
<ol>
<li>患者への人権侵害は、医師から起こる場合と、医師以外（たとえば「時の権力」、経済的圧力、暴力的圧力など）から起こる場合とに分けられる。</li>
<li>医師から患者への人権侵害に対して、「個人の努力だけでなく、システムで補完」するためには、医師集団内部に「医師間相互評価(peer review)」のシステムを作ること、これがself-regulation（自浄機能）の意味である。</li>
<li>医師以外から患者への人権侵害に対して、「個人の努力だけでなく、システムで補完」するためには、医師集団として対応することである。医師集団がたとえば「時の権力」に依存していれば「時の権力」に対応できない。対応できるためには医師集団が患者の人権侵害を起こしているものから自律している必要がある。何ものからも自律（autonomy）していることを宣言（profess）することである。これがprofessional autonomy（適当な和訳はない）の意味である。</li>
<li>この考えを各国の医師会（医師集団）が受け入れるように勧めているのが、世界医師会の「professional autonomy and self-regulation」に関するマドリッド宣言である。</li>
</ol>
<p>AutonomyのルーツはカントのAutonomieである。Autonomyとself-regulationとはコインの裏表のようなものである。概念として分けることはできない。しかし現実のシステムにすると上述のように分かれるということである。Autonomyとself-regulation のシステムは一対のシステムである。どちらか片方だけ実行するということは成立しないのである。</p>
<p>「内科医師憲章」でも最初にprofessional autonomyを述べ最後にself-regulationを述べている。Professional autonomyを述べている個所は、Fundamental Principles. Principle of primacy of patient welfare.の「Market forces, societal pressures, and administrative exigencies must not compromise this principle.」である。「Market forces, societal pressures, and administrative exigencies」からのautonomyを「must not」と宣言(profess)しているのである。Self-regulationを述べている個所は、Commitment to professional responsibilities.の「As members of a profession, physicians are expected to（中略） participate　in　the　processes　of　self-regulation,　including　remediation　and　discipline　of　members　who have failed to meet professional standards.」である。</p>
<p>ちなみに、「扶氏医戒之略」の最終章である第12章の後段は「然りといへども実に其誤治なることを知て之を外視するは、亦医の任にあらず。」となっている。「誤治」（すなわち誤診、医療ミス、医療倫理違反）を知った場合は、これを放置してはいけないと言っているのである。「医師間相互評価(peer review)」、すなわちself-regulation（自浄機能）が「医の任」（医師の役目）であると言っているのである。自浄機能を最後に述べる構造も、「内科医師憲章」の構造と同じである。この構造も、「内科医師憲章」を作成するときにフーフェラントの「医の倫理」を参考にしたことを窺わせるのである。</p>
<p><span style="color: rgb(0, 0, 255);"><strong>３：「理想」の形として挙げている「内科医師憲章」の成立の背景に対する無理解。</strong></span></p>
<p>氏は「内科医師憲章」を引用して「プロとしての望ましい姿勢や自覚を個人だけの意志や熱意だけでは維持できない側面も出てきている。」と述べている。しかし、上述のように<strong>「個人の努力だけでなく、システムで補完」</strong>する考えはマドリッド宣言で取り上げられているのであり、戦後の世界の医療倫理観になっているのである。たとえばアメリカ医師会(AMA)の倫理規定(Code of Medical Ethics)では、さらに端的に、そのPrinciples（倫理綱領に相当）およびIntroduction（その説明に相当）において次のように記載されているのである（アンダーラインは筆者）。</p>
<div style="border: 1px solid rgb(102, 102, 102); margin: 10px 20px; padding: 10px;"><span style="color: rgb(255, 102, 0);"><strong>AMA Principles of medical ethics.</strong></span><br />
II. A physician shall uphold the standards of professionalism, be honest in all professional interactions, and <u>strive to report physicians deficient in character or competence, or engaging in fraud or deception, to appropriate entities.</u><br />
III. A physician shall respect the law and <u>also recognize a responsibility to seek changes in those requirements which are contrary to the best interests of the patient.</u><br />
<span style="color: rgb(255, 102, 0);"><strong>Introduction: Terminology.</strong></span><br />
Many of the Council&rsquo;s opinions lay out specific duties and obligations for physicians. <u>Violation of these principles and opinions represents unethical conduct and may justify disciplinary action such as censure, suspension, or expulsion from medical society membership.</u> (II)<br />
<span style="color: rgb(255, 102, 0);"><strong>Introduction: The relation of law and ethics.</strong></span><br />
Ethical values and legal principles are usually closely related, but ethical obligations typically exceed legal duties. <u>In some cases, the law mandates unethical conduct. In general, when physicians believe a law is unjust, they should work to change the law. In exceptional circumstances of unjust laws, ethical responsibilities should supersede legal obligations.</u><br />
The fact that a physician charged with allegedly illegal conduct is acquitted or exonerated in civil or criminal proceedings does not necessarily mean that the physician acted ethically. (III)</div>
<p>&nbsp;</p>
<p>世界医師会の推奨を受ける形で「内科医師憲章」も作成されているのである。「内科医師憲章」の、さらにアメリカ医師会の倫理綱領などの、成立の背景を理解しておれば、「プロとしての望ましい姿勢や自覚を個人だけの意志や熱意だけでは維持できない側面も出てきている。」などと述べることは無いであろう。氏の医療倫理観が、戦後の世界の医療倫理観に後れを取っていると言わざるを得ないのである。「内科医師憲章」の共同の作成に日本の医師集団が参加できない理由がこの後れによるのである。</p>
<p>日本内科学会誌のシリーズ「指導医のために：プロフェッショナリズム」の、1月号以降に掲載された内容を見る限り（注）、また、1月号に掲載された今後の掲載予定の仮タイトルを見る限り、上述した問題点が明らかにされる様子はない。すなわち大生定義氏がシリーズのはじめに述べている医療倫理観が、日本内科学会・専門医部会の医療倫理観のようである。したがって以上に指摘した問題点を明らかにしなければ、「日本内科学会・専門医部会の医療倫理観は今後の日本の医師集団の医療倫理観をミスリードする可能性を含んでいる」といわざるを得ないのである。</p>
<p>（注）：日内会誌第5号の同シリーズの項で、野村英樹氏がself-regulation（自浄機能）について述べている（３）。しかし、対となるべきprofessional autonomyについてまったく触れていない点はマドリッド宣言の無理解ないし無視のためであろう。self-regulation（自浄機能）だけを取り上げるだけでは、ある権力が共有地の大きさを規制しているために「共有地の危機（４）」が起こった場合、その権力と闘って「共有地を拡大させて解決する」という考えが出てこないのである。時の権力による患者の人権侵害に対して医師集団が対応するために必要なシステムがprofessional autonomyである、と言っているのがマドリッド宣言である。日本では、「低」医療費政策という時の権力により、たらい回しで手遅れになることもある「医療崩壊」という患者の人権侵害が起こっているのである。医師集団として立ち上がれないのはprofessional autonomyというシステムが出来ていないからである。</p>
<p>（１）：大生定義：「プロフェッショナル：教育・研究・実地医療でその求められる科学性・人間性・社会性」、日内会誌99; 183-187, 2010．<br />
（２）：杉田絹枝・杉田勇共訳：「フーフェラント自伝/医の倫理」、北樹出版、1995．<br />
（３）：野村英樹：「プロフェッションによる教育と自律のあり方」、日内会誌99; 1116-1121, 2010．<br />
（４）：野村英樹：健康保険制度における「プロフェッションの自律」内科系学会社会保険連合「ワークショップ」「プロフェッショナリズムと保険診療」http://www.naihoren.jp/gijiroku/gijiroku104/104gian3-1.pdf</p>
<p style="text-align: right;">（2010.6．4脱稿、MRIC no.205掲載）</p>
<p style="text-align: center;"><a href="mailto:info@ahiraoka.com"><img alt="コラムへのご意見・ご相談はこちらへ" src="../../../images/mailto.gif" /></a></p>
]]></content:encoded>
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		<item>
		<title>(10)日本医師会の時代遅れの医療倫理観</title>
		<link>http://www.ahiraoka.com/column/325/</link>
		<comments>http://www.ahiraoka.com/column/325/#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 09 Aug 2010 03:31:34 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[コラム]]></category>

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		<description><![CDATA[平成22年5月1日発行の日本医師会雑誌に、「特別記事：医師の倫理・資質向上について‐各国に学ぶ」（139(2):361~385）が掲載された。その中の問題点をまとめると以下の２点となる。いずれも世界医師会の「professional autonomy and self-regulation」に関するマドリッド宣言を理解していない（あるいは、無視している）ところから生じているようである。
&#160;
１．「倫理は基本として個人的、内省的、非強制的なことで、倫理・資質向上については医師各自の自覚が重要である」ことについては、「医師の職業倫理指針」平成20年改訂版の序文でも述べられていることである。今回の記事ではさらに「医師相互の協力、peer reviewを通じての医師団体の自律的規制も重要である」という認識が追加されたことは一歩前進である。しかしながら、「医師団体の自律的規制」は、医師会への強制加入とは別問題であるにも関わらず、「強制加入医師会の問題」にすり替えられている点が問題である。
２．「ここで気が付くことは、わが国のように28万余の多数の医師を省庁の一部局が管理しているような国はまず見当たらないということである」と述べられているが、わが国以外は世界医師会の推奨を受けてprofessional autonomy and self-regulationのシステムを作っているからであり、日本だけが「自律」から取り残されているに過ぎない。世界医師会の推奨を受け入れていない姿勢はこれまでの日本医師会の姿勢のままであり、この点が最も問題である。
「To Err is Human: Building a Safer Health System」とはアメリカNational Academy of Sciencesが1999年に出した報告書（2000年に発刊）のタイトルであり、医療安全の考え方を変えるキッカケとなったことで有名である。「人は過失を犯すもの。だから過失を起こさないようなシステムを作ろう。」と言っているのである。「個人の努力に任せる」だけでなく、「システムで補完しよう」ということである。
医療ミスとは「患者に害をあたえる」ことに通じる。「First do no harm（まず、患者に害を与えない）」はヒポクラテス以来の医療倫理の&#8220;いの一番&#8221;である。したがって医療倫理においても「個人の努力だけでなく、システムで補完」しようという考えがあっても可笑しくない。それが世界医師会のマドリッド宣言である。時間的な関係から言うと、先にマドリッド宣言があり、その考え方を医療安全に当てはめたのが先の報告書である。医療倫理においては人と人の間のシステムであるが、医療安全においては人とモノ（医療機器など）の間のシステムである点が異なっているが、考え方は同じである。
戦後の医療倫理観をリードしてきたのは世界医師会である。日本医師会も昭和26年に入会している。世界医師会の医療倫理観はナチス政権下のホロコースト（組織的な大量虐殺）において多数の医師が人権侵害を犯した反省からきている。まず「患者の人権擁護」を医療倫理の&#8220;いの一番&#8221;に置いた。そして「個人の努力」に任せておくだけでは人権侵害を犯してしまった反省から、「個人の努力だけでなく、システムで補完」しようという考えのもと、「professional autonomy and self-regulation」のシステム作りを各国の医師会（医師集団）に推奨した、それがマドリッド宣言である。
患者の人権侵害は医師から生じる場合と医師以外（たとえばナチスのように「時の権力」）から生じる場合とがある。

医師から患者への人権侵害に対して、「個人の努力だけでなく、システムで補完」して擁護するためには、医師集団内部に「医師間相互評価(peer review)」のシステムを作ることである。これがself-regulation（自浄機能）の意味である。
医師以外から患者への人権侵害に対して、「個人の努力だけでなく、システムで補完」して擁護するためには、医師集団として対応することになる。医師集団がたとえば「時の権力」に依存していれば「時の権力」に対応できない。対応できるためには医師集団が人権侵害を起こしているものから自律している必要がある。何ものからも自律（autonomy）していることを宣言（profess）することが必要である。これがprofessional autonomy（適当な和訳はない）の意味である。 Autonomyとself-regulationとはコインの裏表のようなものである。概念として分けることはできない。しかし現実のシステムにすると上述のように分かれることになる。Self-regulationとautonomyのシステムは一対のシステムであり、どちらか片方だけを実行するということは成立し得ない。

「特別記事」の問題点にもどろう。
第一の点：医師間相互評価(peer review)のシステムを医師会の内部に作ることと強制加入医師会の問題は別である。現にアメリカやイギリスの医師会は自由加入の医師会であるが、世界医師会の推奨に合わせてself-regulationのシステム（もちろんautonomyのシステムも）を持っているのである。日本医師会が世界医師会の推奨の意味を理解していない（あるいは無視している）だけである。
第二の点：日本医師会が世界医師会の推奨に合わせた改革を怠っているために、autonomyのシステムができていないのであって、その結果が「省庁の一部局が管理」した状態、すなわち「自律」していないまま現在に至っているのである。世界の変化から取り残されているだけである。
このような時代遅れの医療倫理観を持つ日本医師会がどのような弊害をもたらしているだろうか。自浄機能を持たない日本医師会は、倫理違反を犯した医師（すなわち医師から患者への人権侵害）に対応できずに、医療不信を起こしているのである。また、「時の権力」から自律していない日本医師会は、「低」医療費政策による医療従事者の過労死の増加、さらに「医療崩壊」という患者の人権侵害（すなわち患者が必要な医療を受けられない、あるいはたらい回しで手遅れになるということ）に、対応できていないのである。
「個人の努力に任せる」だけの医療倫理観では、いくら「各国に学ぶ」努力をしても限界がある。その限界を「システムで補完」するために「professional autonomy and self-regulation」のシステム作りを、世界医師会が各国の医師会に推奨しているのである。時代遅れの医療倫理観を捨て、一刻も早く、世界医師会の推奨に合わせてprofessional autonomy and self-regulationのシステムを持つ、新しい日本の医師会を作ることが必要である。
（2010.5.21.脱稿。MRIC no.180配信、その後下線部追加）

]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>平成22年5月1日発行の日本医師会雑誌に、「特別記事：医師の倫理・資質向上について‐各国に学ぶ」（139(2):361~385）が掲載された。その中の問題点をまとめると以下の２点となる。いずれも世界医師会の「professional autonomy and self-regulation」に関するマドリッド宣言を理解していない（あるいは、無視している）ところから生じているようである。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong><span style="color: rgb(0, 0, 255);">１．</span></strong>「倫理は基本として個人的、内省的、非強制的なことで、倫理・資質向上については医師各自の自覚が重要である」ことについては、「医師の職業倫理指針」平成20年改訂版の序文でも述べられていることである。今回の記事ではさらに「医師相互の協力、peer reviewを通じての医師団体の自律的規制も重要である」という認識が追加されたことは一歩前進である。しかしながら、「医師団体の自律的規制」は、医師会への強制加入とは別問題であるにも関わらず、「強制加入医師会の問題」にすり替えられている点が問題である。</p>
<p><span style="color: rgb(0, 0, 255);"><strong>２．</strong></span>「ここで気が付くことは、わが国のように28万余の多数の医師を省庁の一部局が管理しているような国はまず見当たらないということである」と述べられているが、わが国以外は世界医師会の推奨を受けてprofessional autonomy and self-regulationのシステムを作っているからであり、日本だけが「自律」から取り残されているに過ぎない。世界医師会の推奨を受け入れていない姿勢はこれまでの日本医師会の姿勢のままであり、この点が最も問題である。</p>
<p>「To Err is Human: Building a Safer Health System」とはアメリカNational Academy of Sciencesが1999年に出した報告書（2000年に発刊）のタイトルであり、医療安全の考え方を変えるキッカケとなったことで有名である。「人は過失を犯すもの。だから過失を起こさないようなシステムを作ろう。」と言っているのである。「個人の努力に任せる」だけでなく、「システムで補完しよう」ということである。</p>
<p>医療ミスとは<strong>「患者に害をあたえる」</strong>ことに通じる。「First do no harm（まず、患者に害を与えない）」はヒポクラテス以来の医療倫理の&ldquo;いの一番&rdquo;である。したがって医療倫理においても「個人の努力だけでなく、システムで補完」しようという考えがあっても可笑しくない。それが世界医師会のマドリッド宣言である。時間的な関係から言うと、先にマドリッド宣言があり、その考え方を医療安全に当てはめたのが先の報告書である。医療倫理においては人と人の間のシステムであるが、医療安全においては人とモノ（医療機器など）の間のシステムである点が異なっているが、考え方は同じである。</p>
<p>戦後の医療倫理観をリードしてきたのは世界医師会である。日本医師会も昭和26年に入会している。世界医師会の医療倫理観はナチス政権下のホロコースト（組織的な大量虐殺）において多数の医師が人権侵害を犯した反省からきている。まず「患者の人権擁護」を医療倫理の&ldquo;いの一番&rdquo;に置いた。そして「個人の努力」に任せておくだけでは人権侵害を犯してしまった反省から、「個人の努力だけでなく、システムで補完」しようという考えのもと、「professional autonomy and self-regulation」のシステム作りを各国の医師会（医師集団）に推奨した、それがマドリッド宣言である。</p>
<p>患者の人権侵害は医師から生じる場合と医師以外（たとえばナチスのように「時の権力」）から生じる場合とがある。</p>
<ol>
<li>医師から患者への人権侵害に対して、「個人の努力だけでなく、システムで補完」して擁護するためには、医師集団内部に「医師間相互評価(peer review)」のシステムを作ることである。これがself-regulation（自浄機能）の意味である。</li>
<li>医師以外から患者への人権侵害に対して、「個人の努力だけでなく、システムで補完」して擁護するためには、医師集団として対応することになる。医師集団がたとえば「時の権力」に依存していれば「時の権力」に対応できない。対応できるためには医師集団が人権侵害を起こしているものから自律している必要がある。何ものからも自律（autonomy）していることを宣言（profess）することが必要である。これがprofessional autonomy（適当な和訳はない）の意味である。 Autonomyとself-regulationとはコインの裏表のようなものである。概念として分けることはできない。しかし現実のシステムにすると上述のように分かれることになる。Self-regulationとautonomyのシステムは一対のシステムであり、どちらか片方だけを実行するということは成立し得ない。</li>
</ol>
<p>「特別記事」の問題点にもどろう。</p>
<p><span style="color: rgb(255, 0, 0);"><strong>第一の点：</strong></span>医師間相互評価(peer review)のシステムを医師会の内部に作ることと強制加入医師会の問題は別である。現にアメリカやイギリスの医師会は自由加入の医師会であるが、世界医師会の推奨に合わせてself-regulationのシステム（もちろんautonomyのシステムも）を持っているのである。日本医師会が世界医師会の推奨の意味を理解していない（あるいは無視している）だけである。</p>
<p><strong><span style="color: rgb(255, 0, 0);">第二の点：</span></strong>日本医師会が世界医師会の推奨に合わせた改革を怠っているために、autonomyのシステムができていないのであって、その結果が「省庁の一部局が管理」した状態、すなわち「自律」していないまま現在に至っているのである。世界の変化から取り残されているだけである。</p>
<p>このような時代遅れの医療倫理観を持つ日本医師会がどのような弊害をもたらしているだろうか。自浄機能を持たない日本医師会は、倫理違反を犯した医師（すなわち医師から患者への人権侵害）に対応できずに、医療不信を起こしているのである。また、「時の権力」から自律していない日本医師会は、「低」医療費政策による医療従事者の過労死の増加、さらに「医療崩壊」という患者の人権侵害（すなわち患者が必要な医療を受けられない、あるいはたらい回しで手遅れになるということ）に、対応できていないのである。</p>
<p>「個人の努力に任せる」だけの医療倫理観では、いくら「各国に学ぶ」努力をしても限界がある。その限界を「システムで補完」するために「professional autonomy and self-regulation」のシステム作りを、世界医師会が各国の医師会に推奨しているのである。時代遅れの医療倫理観を捨て、一刻も早く、世界医師会の推奨に合わせてprofessional autonomy and self-regulationのシステムを持つ、新しい日本の医師会を作ることが必要である。</p>
<p style="text-align: right;">（2010.5.21.脱稿。MRIC no.180配信、その後下線部追加）</p>
<p style="text-align: center;"><a href="mailto:info@ahiraoka.com"><img alt="コラムへのご意見・ご相談はこちらへ" src="../../../images/mailto.gif" /></a></p>
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		<item>
		<title>2010年「血液がん　~より良い治療とより良い治癒」フォーラムのお知らせ</title>
		<link>http://www.ahiraoka.com/info/319/</link>
		<comments>http://www.ahiraoka.com/info/319/#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 21 Jun 2010 04:04:08 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[相談室からのお知らせ]]></category>

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		<description><![CDATA[NPO法人血液情報広場・つばさが主催する「血液がん　~より良い治療とより良い治癒」が大阪にて開催されます。

日程：7月10日（土）10時～17時
会場：豊中市民会館
参加費：1人　1,000円

詳しくはチラシ（PDF）をクリックしてご確認ください。

]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>NPO法人血液情報広場・つばさが主催する「血液がん　~より良い治療とより良い治癒」が大阪にて開催されます。</p>
<ul>
<li><strong>日程：7月10日（土）10時～17時</strong></li>
<li><strong>会場：豊中市民会館</strong></li>
<li><strong>参加費：1人　1,000円</strong></li>
</ul>
<p>詳しくはチラシ（PDF）をクリックしてご確認ください。</p>
<p style="text-align: center;"><a target="_blank" href="http://www.ahiraoka.com/images/2010-osaka.pdf"><img hspace="10" height="352" width="250" align="center" alt="" src="http://www.ahiraoka.com/images/2010-osak.jpg" /></a></p>
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		<title>(9) 「自律しようよ、政界も医療界も」</title>
		<link>http://www.ahiraoka.com/column/313/</link>
		<comments>http://www.ahiraoka.com/column/313/#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 26 Jan 2010 19:14:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[コラム]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.ahiraoka.com/?p=313</guid>
		<description><![CDATA[１．政界の場合
「法に触れるようなことはしていません」。
政治と金の問題が起こった時に、政治家が釈明によく使う言葉である。「違法でなければ良いではないか」と言いたいのだろう。しかし、政治と金の問題は違法・合法の問題ではない、倫理性が問われているのだ。もちろん、違法であれば論外である。
「違法でなければ」という言葉を聞くとき、何故かそれが詭弁に聞こえる。それは、言葉の裏に「倫理的に問題あるが」を隠しているからだろう。「倫理的に問題あるが、違法でないから良いではないか」とは自身の口からは言えない、そこで、前半を誤魔化し、後半の「違法でなければ」だけを強調するのだろう。「倫理的に問題あるが、合法である」という言葉が詭弁と聞こえるのは、現在の常識と考えられる「法は最低限の道徳」に矛盾するからである。
「この言葉はドイツの公法学者ゲオルク・イェリネック(1851-1911)が、『法、不法および刑罰の社会倫理的意義』で述べたものである。（中略）法は最低必要限度の道徳を盛り込んだにすぎず、また法は内心の問題には立ち入らないという意味で言われたのであり、刑法に最もよくあてはる」(1)。
刑法と社会倫理の関係を表現したこの言葉は、「法も道徳の一部」を前提としている。一方、「倫理的に問題あるが、合法である」という言葉は「非道徳的な法」の存在を前提としている。「違法でなければ」という言葉を詭弁と感じるのは、この常識と矛盾するからだろう。詭弁を用いて釈明する人は信用されない。ましてや立法を仕事とする政治家が、「非道徳的な法」の存在を前提に釈明するとき、二重に信用できないことになる。
２．医療界の場合
医療界においても、「違法でなければ」という言葉を発した医師がいる。それは、「和田心臓移植事件」と呼ばれる日本での心臓移植第一号を行った、和田壽郎教授である。
戦後の医療界において最も医師のモラルが問題にされた事件は和田心臓移植であろう。和田教授は、殺人・業務上過失致死で告発されたが証拠不十分で不起訴になり、真相が究明されずにおわった。当時の医学界は公式に和田心臓移植事件に対する態度を表明しなかった、あるいは、する機会を失った。その後、日本弁護士連合会は和田教授に対して、「対診」すなわち、医師間の相互評価(peer review)を行わなければ移植を行うべからず、という警告文を出した(2)。
昭和２６年制定の日本医師会「医師の倫理」には「対診のすすめ」が記載されている。和田教授はこれを守らずに心臓移植を行ったのである。この倫理違反に対して内部からの反省（すなわちself-regulation＝自律）が無かったので、外部から警告が出された（すなわち他律、他から律せられた）のである。この一連の経過が、国民の間に深い医療不信を植え付けることになった。
その後、和田教授は、引き続き心臓移植を行わなかった同僚を批判するかのごとく次の言葉を発している。「つまり、和田の手術の後では、同じやり方で移植を行っても罪にならないという道が日本でも開かれたのであった。それにもかかわらず、心臓移植手術は行われなかったのだ」(3)。
「違法でなければ問題ないではないか」と言っているのである。この言葉には「社会道徳にとって非倫理的であるが」ということが隠され、「非倫理的であるが、合法的であるから問題ない」と言っていることになる。
３．政治不信、医療不信の構造
「違法でなければ」を口にする人は、政界でも、医療界でも、全体のごく一部に過ぎない。大部分の政治家、医師は倫理的にも優れた人たちである。しかしながら、倫理的に問題のあるわずかな人を放置し、政界・医療界に自浄作用（self-regulation＝自律）が無ければ、政界・医療界全体が信用されなくなるのは当然である。同じ穴の狢と見られるのである。現在の政治不信、医療不信の構造がここにある。自律する以外には、政治不信、医療不信を無くせないだろう。
&#160;
(1) 山畠正男、福永有利、小川浩三著「法のことわざと民法」北海道大学図書刊行会、1985, 1-2頁。
(2) 平岡　諦「対診とセカンドオピニオン」、「医の倫理ーミニ時典」日本医師会編、40-41頁, 2006。
(3) 和田壽郎著「神から与えられたメス」、メディカルトリビューン、146頁、2000。
(MRIC no.18, 2010にて発表）

]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong><span style="color: rgb(0, 0, 255);">１．政界の場合</span></strong></p>
<p>「法に触れるようなことはしていません」。<br />
政治と金の問題が起こった時に、政治家が釈明によく使う言葉である。「違法でなければ良いではないか」と言いたいのだろう。しかし、政治と金の問題は違法・合法の問題ではない、倫理性が問われているのだ。もちろん、違法であれば論外である。</p>
<p>「違法でなければ」という言葉を聞くとき、何故かそれが詭弁に聞こえる。それは、言葉の裏に「倫理的に問題あるが」を隠しているからだろう。「倫理的に問題あるが、違法でないから良いではないか」とは自身の口からは言えない、そこで、前半を誤魔化し、後半の「違法でなければ」だけを強調するのだろう。「倫理的に問題あるが、合法である」という言葉が詭弁と聞こえるのは、現在の常識と考えられる「法は最低限の道徳」に矛盾するからである。</p>
<p>「この言葉はドイツの公法学者ゲオルク・イェリネック(1851-1911)が、『法、不法および刑罰の社会倫理的意義』で述べたものである。（中略）法は最低必要限度の道徳を盛り込んだにすぎず、また法は内心の問題には立ち入らないという意味で言われたのであり、刑法に最もよくあてはる」<strong>(1)</strong>。</p>
<p>刑法と社会倫理の関係を表現したこの言葉は、「法も道徳の一部」を前提としている。一方、「倫理的に問題あるが、合法である」という言葉は「非道徳的な法」の存在を前提としている。「違法でなければ」という言葉を詭弁と感じるのは、この常識と矛盾するからだろう。詭弁を用いて釈明する人は信用されない。ましてや立法を仕事とする政治家が、「非道徳的な法」の存在を前提に釈明するとき、二重に信用できないことになる。</p>
<p><strong><span style="color: rgb(0, 0, 255);">２．医療界の場合</span></strong></p>
<p>医療界においても、「違法でなければ」という言葉を発した医師がいる。それは、「和田心臓移植事件」と呼ばれる日本での心臓移植第一号を行った、和田壽郎教授である。</p>
<p>戦後の医療界において最も医師のモラルが問題にされた事件は和田心臓移植であろう。和田教授は、殺人・業務上過失致死で告発されたが証拠不十分で不起訴になり、真相が究明されずにおわった。当時の医学界は公式に和田心臓移植事件に対する態度を表明しなかった、あるいは、する機会を失った。その後、日本弁護士連合会は和田教授に対して、「対診」すなわち、医師間の相互評価(peer review)を行わなければ移植を行うべからず、という警告文を出した<strong>(2)</strong>。<br />
昭和２６年制定の日本医師会「医師の倫理」には「対診のすすめ」が記載されている。和田教授はこれを守らずに心臓移植を行ったのである。この倫理違反に対して内部からの反省（すなわちself-regulation＝自律）が無かったので、外部から警告が出された（すなわち他律、他から律せられた）のである。この一連の経過が、国民の間に深い医療不信を植え付けることになった。</p>
<p>その後、和田教授は、引き続き心臓移植を行わなかった同僚を批判するかのごとく次の言葉を発している。「つまり、和田の手術の後では、同じやり方で移植を行っても罪にならないという道が日本でも開かれたのであった。それにもかかわらず、心臓移植手術は行われなかったのだ」<strong>(3)</strong>。<br />
「違法でなければ問題ないではないか」と言っているのである。この言葉には「社会道徳にとって非倫理的であるが」ということが隠され、「非倫理的であるが、合法的であるから問題ない」と言っていることになる。</p>
<p><strong><span style="color: rgb(0, 0, 255);">３．政治不信、医療不信の構造</span></strong></p>
<p>「違法でなければ」を口にする人は、政界でも、医療界でも、全体のごく一部に過ぎない。大部分の政治家、医師は倫理的にも優れた人たちである。しかしながら、倫理的に問題のあるわずかな人を放置し、政界・医療界に自浄作用（self-regulation＝自律）が無ければ、政界・医療界全体が信用されなくなるのは当然である。同じ穴の狢と見られるのである。現在の政治不信、医療不信の構造がここにある。自律する以外には、政治不信、医療不信を無くせないだろう。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>(1) 山畠正男、福永有利、小川浩三著「法のことわざと民法」北海道大学図書刊行会、1985, 1-2頁。<br />
(2) 平岡　諦「対診とセカンドオピニオン」、「医の倫理ーミニ時典」日本医師会編、40-41頁, 2006。<br />
(3) 和田壽郎著「神から与えられたメス」、メディカルトリビューン、146頁、2000。</p>
<p align="right">(MRIC no.18, 2010にて発表）</p>
<p style="text-align: center;"><a href="mailto:info@ahiraoka.com"><img alt="コラムへのご意見・ご相談はこちらへ" src="../../../images/mailto.gif" /></a></p>
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	</item>
		<item>
		<title>(8) 自律できない日本の医療界；緒方洪庵「扶氏医戒之略」の今日的意味</title>
		<link>http://www.ahiraoka.com/column/303/</link>
		<comments>http://www.ahiraoka.com/column/303/#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 25 Jan 2010 08:47:20 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[コラム]]></category>

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		<description><![CDATA[はじめに
信頼を失う行為があった場合、他者から厳しく罰せられても（すなわち他律では）信頼は回復されない。信頼回復には自らを律する（すなわち自律=self-regulationする）ことが必要である。自律できなければ、医療は官僚的（他律的）となり、医師が理想と考える医療を医師の手によって実現させることができなくなる。理想をかかげその実現に邁進する、それがなければ尊敬されることはない。信頼され、尊敬されるためには、まず専門職能集団としての自律、すなわちプロフェッショナル・オートノミー(professional autonomy)を確立することが重要である。
「この誓いを守り続ける限り、私は人生と医術とを享受し、すべての人から尊敬されるであろう。しかし、万が一、この誓いを破るとき、私はその反対の運命を賜るだろう（ヒポクラテスの「誓」より）」。尊敬されるためにはまず「自律」が必要なこと、このことはヒポクラテスの時代から変っていないのである。信頼と尊敬をとりもどすため、日本の医療界の「自律」について、原点から見直す必要があるだろう。
１．「自律」を最初に述べたのはカントである。
人間の捉え方に「性善説」と「性悪説」がある。カント(Immanuel Kant, 1724-1804) は「人間は性善であると同時に性悪である」と考えた。
神（理想）に近づくためには第一に、己が従うべき「道徳律」を持つこと。しかし神ではないので、その「道徳律」を踏み誤ることがある。そこで第二に、「絶えざる反省」をすること。「絶えざる反省」とは、踏み誤らないように絶えず「自戒」すること、踏み誤った時は「自省」することであろう。「自戒」し、「自省」出来たとき、自分を律すること、すなわち「自律」できたことになる。自律できなければ、踏み誤った時には他に律せられる、すなわち他律となる。以上が、簡単にまとめたカントの倫理哲学である。
カントの「道徳律」を医師集団に当てはめると「医師の職業倫理」となる。カントの「絶えざる反省」は、医師集団では「医師間の健全なる相互評価＝peer review」となる。誤った治療にならないように「自戒」するのが「対診」や「セカンド・オピニオン」と呼ばれる「他医の評価」である。誤った治療に対する「自省」に相当するのが「剖検による診断・治療の反省（病理医による評価）」であり、誤った治療に対する「自律的評価制度・制裁制度」である。「医師間の健全な相互評価」が絶えず機能するとき、医師集団が「自律」できた事になる。専門職能集団としての自律、すなわちプロフェッショナル・オートノミーが成立した事になる。
２．「其誤治なることを知て、之を外視するは亦医の任にあらず」
当然のことながら、医師にとって最大の職業倫理違反は「誤った治療＝誤治」である。究極の倫理違反は「誤治により患者を死に至らしめる」ことである。上の言葉は、「誤治すなわち倫理違反を知って、これを放置してはいけない」、すなわち「医師間の健全な相互評価」の重要性を言っているのである。
「医の世に生活するは人の為のみ、己がために非ずといふ事を其業の本旨とす」で始まる第一章以下、医師としての「道徳律」を述べているのが、緒方洪庵(1810-1863)の「扶氏医戒之略」である。上の言葉は、その最終章である第十二章後段に述べられている。最初に「道徳律」を述べ、最後に「絶えざる反省」を述べるこの構造は、上述したカント倫理哲学の「自律」と同じ構造を取っているのである。
同じ構造をとっている理由は、「扶氏医戒之略」の成り立ちを追うことで理解できるだろう。そのオリジナルは、ドイツの医師、フーフェラント(Ch.W.Hufeland, 1762-1836) の「医の倫理」である。1836年に「医学必携」の最終章として出版された。そのオランダ語訳本が日本へもたらされ、杉田成卿（杉田玄白の孫）により「済生三方付医戒」としてその全訳が出版された(1849年)。「医戒」部分の緒方洪庵による抄訳が「扶氏医戒之略」(1857年)である。「扶氏医戒之略」とは、扶氏＝フーフェラント氏、医戒＝杉田成卿の「医戒」、略＝抄訳の意味である（文献１より）。
３．フーフェラントの「医の倫理」はカントの倫理哲学の医療版である。
　フーフェラントとカントとのつながりについては以下のような記述がある。二人の実際の交流関係は、1796.12.6、1797.4.19、1798.2.6付けで「カント年譜」（文献２の付録）に記載されている。また、相互に与えた影響については、次のように述べられている。「カントとフーフェラントは互いに著述を通して自己啓発に努めていた。例えばフーフェラントの『長生法』はカントの『人間学』に、カント倫理と『判断力批判』はフーフェラントの『医の倫理』に大きな影響を与えている（文献１、83頁）」。
「自分のためでなく、他の人のために生きること、これが医師という職業の使命であります」。これは、フーフェラントの「医の倫理」の冒頭、「医師の使命」として述べられた言葉である。以下、医師としての「道徳律」が述べられている。最終章には、「万一その患者が間違った治療を受けていると分かったならば、もちろん患者の救済という医術の最高目的があるわけですから、同業のよしみを斟酌することなどはすべて後回しにして、この目的を果たすべきです」（文献１より）と、「医師間の健全な相互評価」の重要性を述べているのである。
まさに、フーフェラントの「医の倫理」はカントの倫理哲学の医療版といえるのである。杉田成卿の全訳を介して、緒方洪庵がその内容を意訳したのが「扶氏医戒之略」である。
適塾は、長崎でオランダ医学を学んだ緒方洪庵が大阪で開いた私塾である。橋本左内、大村益次郎、福沢諭吉、大鳥圭介といった日本の近代化（いわば列強国からの日本の「自律」への動き）に大きな足跡を残した人々が巣立ったことで知られる。「扶氏医戒之略」が、これら塾生に大きな思想的影響を与えたことが考えられるのである。
日本の医療界の自律のために、もう一度、緒方洪庵の「扶氏医戒之略」を見直す必要があるのではないだろうか。ちょうど来年(2010年)は、緒方洪庵の生誕200年に当たっている。
４．日本の医療界は「自律」できるのだろうか。
カント、フーフェラントの精神を引きついでいるであろうドイツの医療界の「自律」はどの様であろうか。現在のドイツでは、医師の行動規範であると同時に、制裁による強制力を持つ「医師職業規則(Berufsordnung)」があり、そして強制加入の職能団体である医師会が医師職業裁判所と連携した懲戒処分を行うという、「自律」した制度が成立している（文献３より）。
では、緒方洪庵の「扶氏医戒之略」を持つ日本の現状はいかがであろうか。残念ながら、「自律」には程遠い状況である。特に、「自律的評価制度・制裁制度」が機能していない、あるいは、無いに等しい状況である。以下に、日本の現状と「自律」への必要事項をまとめて述べる。

医師集団それぞれにおいて「自律的評価制度・制裁制度」を作ること
    これ無くして「自律」は望めない。究極は「誤治による患者の死亡」の評価・制裁制度であり、これが無いために、国の組織すなわち「他律」的な「医療安全調査委員会」（仮称）が設置されようとしている。特に次の専門医制度の見直しが重要であろう。
専門医制度の見直し
    多くの学会が専門医制度を持っている。しかし、「制裁制度」を持つ専門医制度は無い。たとえば最近のレーシック事件をみても、日本眼科学会が制裁を加えたとは聞き及んでいない。警察・検察まかせ、すなわち「他律」である。「眼科専門医」の信頼やいかに、である。
すべての「医師の職業倫理」の最後に、「誤治＝倫理違反」に対する「医師間の健全な相互評価」の必要性を記載すること
    これが無いために「健全な相互評価」を「個人攻撃」と捉える風潮があり、そのため「健全な相互評価」が抑えられているのが現状である。
受け皿を作ること
    「誤治」に対する最高のモニターは患者およびその家族である。医師集団それぞれが「患者相談窓口」を作る必要がある。
病理解剖による診断・治療の反省
    冲中重雄教授が最終講義「内科臨床と剖検による批判」(1963.3.4)において、誤診率14.2%と、「自らの反省のために苦い経験」をまとめて発表された（文献４）。病理医による臨床医に対する評価である。剖検率の低下に歯止めがかかっていないのが現状である。
対診、セカンド・オピニオンの勧め
    「誤治」にならないための医師間の相互評価であり、「自己決定の医療」の時代においてはセカンド・オピニオンの勧めが、とくに重要な医師間相互評価である（文献５）。その意味合いを理解している医師は少ないのが現状である。
学部において、生命倫理だけでなく、「職業倫理」を教育すること
    多くの医学部において、「医学概論」ないし類似の講義が行われている。しかし、その講義時間は縮小され（国家試験に関係ないから?）、しかも、その内容は生命倫理に偏重しているようである。

おわりに
「自律」への道は、一言で言えば、「誤治」に対する「医師間の健全な相互評価」である。これを制度化し、体質とすることである。「自律」なくして信頼回復も、ましてや尊敬されることも無いであろう。
&#160;
文献
（１）杉田絹枝、杉田勇共訳「フーフェラント自伝/医の倫理」北樹出版,1998（初版第２刷）。
（２）有福孝岳、坂部恵、石川文康、大橋容一郎、黒崎政男、中島義道、福谷茂、牧野英二編「カント辞典」弘文堂、1997。
（３）岡嶋道夫「ドイツにおける医療倫理」2002、日本医師会雑誌128(3); 8-16頁。
（４）冲中重雄「内科臨床と剖検による批判」1997、「最終講義」実業之日本社　61-116頁。
（５）平岡　諦「対診とセカンドオピニオン」2006、「医の倫理ーミニ辞典」日本医師会発行、メジカルビュー社　40-41頁。
（掲載誌；大阪大学医学部　学友会会誌　29;107-111,2009）

]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>はじめに</strong></p>
<p>信頼を失う行為があった場合、他者から厳しく罰せられても（すなわち他律では）信頼は回復されない。信頼回復には自らを律する（すなわち自律=self-regulationする）ことが必要である。自律できなければ、医療は官僚的（他律的）となり、医師が理想と考える医療を医師の手によって実現させることができなくなる。理想をかかげその実現に邁進する、それがなければ尊敬されることはない。信頼され、尊敬されるためには、まず専門職能集団としての自律、すなわちプロフェッショナル・オートノミー(professional autonomy)を確立することが重要である。</p>
<p>「この誓いを守り続ける限り、私は人生と医術とを享受し、すべての人から尊敬されるであろう。しかし、万が一、この誓いを破るとき、私はその反対の運命を賜るだろう（ヒポクラテスの「誓」より）」。尊敬されるためにはまず「自律」が必要なこと、このことはヒポクラテスの時代から変っていないのである。信頼と尊敬をとりもどすため、日本の医療界の「自律」について、原点から見直す必要があるだろう。</p>
<p><strong><span style="color: rgb(0, 0, 255);">１．「自律」を最初に述べたのはカントである。</span></strong></p>
<p>人間の捉え方に「性善説」と「性悪説」がある。カント(Immanuel Kant, 1724-1804) は「人間は性善であると同時に性悪である」と考えた。</p>
<p>神（理想）に近づくためには第一に、己が従うべき「道徳律」を持つこと。しかし神ではないので、その「道徳律」を踏み誤ることがある。そこで第二に、「絶えざる反省」をすること。「絶えざる反省」とは、踏み誤らないように絶えず「自戒」すること、踏み誤った時は「自省」することであろう。「自戒」し、「自省」出来たとき、自分を律すること、すなわち「自律」できたことになる。自律できなければ、踏み誤った時には他に律せられる、すなわち他律となる。以上が、簡単にまとめたカントの倫理哲学である。</p>
<p>カントの「道徳律」を医師集団に当てはめると「医師の職業倫理」となる。カントの「絶えざる反省」は、医師集団では「医師間の健全なる相互評価＝peer review」となる。誤った治療にならないように「自戒」するのが「対診」や「セカンド・オピニオン」と呼ばれる「他医の評価」である。誤った治療に対する「自省」に相当するのが「剖検による診断・治療の反省（病理医による評価）」であり、誤った治療に対する「自律的評価制度・制裁制度」である。「医師間の健全な相互評価」が絶えず機能するとき、医師集団が「自律」できた事になる。専門職能集団としての自律、すなわちプロフェッショナル・オートノミーが成立した事になる。</p>
<p><strong><span style="color: rgb(0, 0, 255);">２．「其誤治なることを知て、之を外視するは亦医の任にあらず」</span></strong></p>
<p>当然のことながら、医師にとって最大の職業倫理違反は「誤った治療＝誤治」である。究極の倫理違反は「誤治により患者を死に至らしめる」ことである。上の言葉は、「誤治すなわち倫理違反を知って、これを放置してはいけない」、すなわち「医師間の健全な相互評価」の重要性を言っているのである。</p>
<p>「医の世に生活するは人の為のみ、己がために非ずといふ事を其業の本旨とす」で始まる第一章以下、医師としての「道徳律」を述べているのが、緒方洪庵(1810-1863)の「扶氏医戒之略」である。上の言葉は、その最終章である第十二章後段に述べられている。最初に「道徳律」を述べ、最後に「絶えざる反省」を述べるこの構造は、上述したカント倫理哲学の「自律」と同じ構造を取っているのである。</p>
<p>同じ構造をとっている理由は、「扶氏医戒之略」の成り立ちを追うことで理解できるだろう。そのオリジナルは、ドイツの医師、フーフェラント(Ch.W.Hufeland, 1762-1836) の「医の倫理」である。1836年に「医学必携」の最終章として出版された。そのオランダ語訳本が日本へもたらされ、杉田成卿（杉田玄白の孫）により「済生三方付医戒」としてその全訳が出版された(1849年)。「医戒」部分の緒方洪庵による抄訳が「扶氏医戒之略」(1857年)である。「扶氏医戒之略」とは、扶氏＝フーフェラント氏、医戒＝杉田成卿の「医戒」、略＝抄訳の意味である（文献１より）。</p>
<p><strong><span style="color: rgb(0, 0, 255);">３．フーフェラントの「医の倫理」はカントの倫理哲学の医療版である。</span></strong></p>
<p>　フーフェラントとカントとのつながりについては以下のような記述がある。二人の実際の交流関係は、1796.12.6、1797.4.19、1798.2.6付けで「カント年譜」（文献２の付録）に記載されている。また、相互に与えた影響については、次のように述べられている。「カントとフーフェラントは互いに著述を通して自己啓発に努めていた。例えばフーフェラントの『長生法』はカントの『人間学』に、カント倫理と『判断力批判』はフーフェラントの『医の倫理』に大きな影響を与えている（文献１、83頁）」。</p>
<p>「自分のためでなく、他の人のために生きること、これが医師という職業の使命であります」。これは、フーフェラントの「医の倫理」の冒頭、「医師の使命」として述べられた言葉である。以下、医師としての「道徳律」が述べられている。最終章には、「万一その患者が間違った治療を受けていると分かったならば、もちろん患者の救済という医術の最高目的があるわけですから、同業のよしみを斟酌することなどはすべて後回しにして、この目的を果たすべきです」（文献１より）と、「医師間の健全な相互評価」の重要性を述べているのである。</p>
<p>まさに、フーフェラントの「医の倫理」はカントの倫理哲学の医療版といえるのである。杉田成卿の全訳を介して、緒方洪庵がその内容を意訳したのが「扶氏医戒之略」である。</p>
<p>適塾は、長崎でオランダ医学を学んだ緒方洪庵が大阪で開いた私塾である。橋本左内、大村益次郎、福沢諭吉、大鳥圭介といった日本の近代化（いわば列強国からの日本の「自律」への動き）に大きな足跡を残した人々が巣立ったことで知られる。「扶氏医戒之略」が、これら塾生に大きな思想的影響を与えたことが考えられるのである。</p>
<p>日本の医療界の自律のために、もう一度、緒方洪庵の「扶氏医戒之略」を見直す必要があるのではないだろうか。ちょうど来年(2010年)は、緒方洪庵の生誕200年に当たっている。</p>
<p><strong><span style="color: rgb(0, 0, 255);">４．日本の医療界は「自律」できるのだろうか。</span></strong></p>
<p>カント、フーフェラントの精神を引きついでいるであろうドイツの医療界の「自律」はどの様であろうか。現在のドイツでは、医師の行動規範であると同時に、制裁による強制力を持つ「医師職業規則(Berufsordnung)」があり、そして強制加入の職能団体である医師会が医師職業裁判所と連携した懲戒処分を行うという、「自律」した制度が成立している（文献３より）。</p>
<p>では、緒方洪庵の「扶氏医戒之略」を持つ日本の現状はいかがであろうか。残念ながら、「自律」には程遠い状況である。特に、「自律的評価制度・制裁制度」が機能していない、あるいは、無いに等しい状況である。以下に、日本の現状と「自律」への必要事項をまとめて述べる。</p>
<ol>
<li><strong>医師集団それぞれにおいて「自律的評価制度・制裁制度」を作ること</strong><br />
    これ無くして「自律」は望めない。究極は「誤治による患者の死亡」の評価・制裁制度であり、これが無いために、国の組織すなわち「他律」的な「医療安全調査委員会」（仮称）が設置されようとしている。特に次の専門医制度の見直しが重要であろう。</li>
<li><strong>専門医制度の見直し</strong><br />
    多くの学会が専門医制度を持っている。しかし、「制裁制度」を持つ専門医制度は無い。たとえば最近のレーシック事件をみても、日本眼科学会が制裁を加えたとは聞き及んでいない。警察・検察まかせ、すなわち「他律」である。「眼科専門医」の信頼やいかに、である。</li>
<li><strong>すべての「医師の職業倫理」の最後に、「誤治＝倫理違反」に対する「医師間の健全な相互評価」の必要性を記載すること</strong><br />
    これが無いために「健全な相互評価」を「個人攻撃」と捉える風潮があり、そのため「健全な相互評価」が抑えられているのが現状である。</li>
<li><strong>受け皿を作ること</strong><br />
    「誤治」に対する最高のモニターは患者およびその家族である。医師集団それぞれが「患者相談窓口」を作る必要がある。</li>
<li><strong>病理解剖による診断・治療の反省</strong><br />
    冲中重雄教授が最終講義「内科臨床と剖検による批判」(1963.3.4)において、誤診率14.2%と、「自らの反省のために苦い経験」をまとめて発表された（文献４）。病理医による臨床医に対する評価である。剖検率の低下に歯止めがかかっていないのが現状である。</li>
<li><strong>対診、セカンド・オピニオンの勧め</strong><br />
    「誤治」にならないための医師間の相互評価であり、「自己決定の医療」の時代においてはセカンド・オピニオンの勧めが、とくに重要な医師間相互評価である（文献５）。その意味合いを理解している医師は少ないのが現状である。</li>
<li><strong>学部において、生命倫理だけでなく、「職業倫理」を教育すること</strong><br />
    多くの医学部において、「医学概論」ないし類似の講義が行われている。しかし、その講義時間は縮小され（国家試験に関係ないから?）、しかも、その内容は生命倫理に偏重しているようである。</li>
</ol>
<p><strong>おわりに</strong></p>
<p>「自律」への道は、一言で言えば、「誤治」に対する「医師間の健全な相互評価」である。これを制度化し、体質とすることである。「自律」なくして信頼回復も、ましてや尊敬されることも無いであろう。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>文献</strong></p>
<p>（１）杉田絹枝、杉田勇共訳「フーフェラント自伝/医の倫理」北樹出版,1998（初版第２刷）。<br />
（２）有福孝岳、坂部恵、石川文康、大橋容一郎、黒崎政男、中島義道、福谷茂、牧野英二編「カント辞典」弘文堂、1997。<br />
（３）岡嶋道夫「ドイツにおける医療倫理」2002、日本医師会雑誌128(3); 8-16頁。<br />
（４）冲中重雄「内科臨床と剖検による批判」1997、「最終講義」実業之日本社　61-116頁。<br />
（５）平岡　諦「対診とセカンドオピニオン」2006、「医の倫理ーミニ辞典」日本医師会発行、メジカルビュー社　40-41頁。</p>
<p align="right">（掲載誌；大阪大学医学部　学友会会誌　29;107-111,2009）</p>
<p style="text-align: center;"><a href="mailto:info@ahiraoka.com"><img alt="コラムへのご意見・ご相談はこちらへ" src="../../../images/mailto.gif" /></a></p>
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		<item>
		<title>(7) 今こそ、『自律』した医師会をつくろう。</title>
		<link>http://www.ahiraoka.com/column/268/</link>
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		<pubDate>Fri, 25 Sep 2009 02:41:47 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[コラム]]></category>

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		<description><![CDATA[はじめに
「富国強兵」をスローガンにした明治新政府も、「敗戦後の復興」をめざした昭和新政府も、官僚組織による統制を必要とした。その果たした役割は大きかったが弊害もめだつようになった。そこへでてきたのが、「脱官僚依存の政治」をスローガンにした民主党主導の平成新政府である。明治以来の方向転換である。
　日本医師会も、時の流れにそってその役割を担ってきたが弊害もめだつようになってきた。おおきな政治の転換点にあたり、医療界もおおきく変ることが求められている。ひとつは敗戦直後に定められた「医師法」、「医療法」を、現在の医療にあわせるための改定である（当コラム欄(3) 「『医療崩壊』と医師法『応召義務』規定」を参照）。もうひとつが本稿で述べる「自律」した医療界への転換である。
1.世界医師会「マドリッド宣言」の実行を。
世界医師会は、1947年の第一回総会いらい、医の倫理や社会医学に関連する協議をかさね、必要におうじて宣言として発表してきた。日本医師会も1951年に加盟している。世界医師会が発表してきた宣言の基礎には、ナチス政権下のホロコーストにおける医師の戦争犯罪にたいする反省がある。第一の反省は、患者の人権蹂躪にたいする反省であり、第二は、時の権力に組みしかれたことに対する反省である。第一の反省にたいしては、患者の人権擁護のための宣言（ヘルシンキ宣言など）をおこない、第二の反省にたいしては、医療界がいかなる権力にも屈しないための宣言をおこなった。それが1987年の「professional autonomy and self-regulation」に関するマドリッド宣言である。
マドリッド宣言では、医療界の「autonomy=自律」、すなわちprofessional autonomyの重要さを述べるとともに、「self-regulation=自己規制」を効果的かつ効率的に実行する責任を各国の医師会にもとめている。残念ながら、現在の日本医師会はこの世界医師会の期待に答えていない。自民党だのみ、すなわち「他律」的といえる現在の日本医師会に「自律」を期待することは無理である。ナチスによるホロコーストと同様に、日本においても関東軍731部隊による人体実験がおこなわれ、おおくの日本人医師がこれに加担した過去がある。戦時下の医学犯罪を教訓にして、時の権力に屈することの無いよう、そして世界につうじる「自律」した医師会を、今こそ日本につくるべき時ではなかろうか。
2.自律と自己規制は、表裏一体のものである。 
「自律」を最初に述べたのはカントである。カントの考えかたは次のようになる。神（理想）に近づくためには、第一におのれが従うべき「道徳律」を持つこと。しかし神ではないので、その「道徳律」を踏みあやまることがある。そこで第二に、「絶えざる反省」をすること。踏みあやまらないための「自戒」、踏みあやまった時の「自省」である。その結果が「自律」したことになる。自戒・自省という自己規制なくして、自律はあり得ないのである。踏みあやまったとき、「自律」が無ければ、他が律する（「他律」）ことになる。（カントのこの考えは、フーフェラントの「医の倫理」となり、そのオランダ語訳が幕末日本にもたらされて緒方洪庵の「扶氏医戒之略」となった。緒方洪庵の私塾である適塾に学んだ福沢諭吉らにおおきな影響を与え、明治維新の日本のかじ取り、いわば列強からの日本の自律、において彼らを活躍させ得たといえるのである。しかしながら、官僚統制を必要とした明治新政府、さらに昭和新政府のもとでは、医療界の（医療界だけではなく多方面での）自律は不可能であった。脱官僚政治の平成新政府のもとでこそ、やっと医療界の自律が可能となったのである。「今こそ」、なのである。）
カントの考えを医師集団にあてはめると、「道徳律」は「医師の職業倫理」となり、「絶えざる反省」は「健全なる医師間の相互評価＝peer review」となる。「医師の職業倫理」の中身は患者の人権擁護であり、「健全なる医師間の相互評価＝peer review」とは、患者の人権蹂躪（ナチスのホロコーストや関東軍731部隊の人体実験など）、あるいは日常診療での医療ミス＝誤った治療（「誤治」）、が起こらないように相互に自戒し、あるいは起こったときは相互に自省をする、すなわち「自己規制」し合うことである。（たとえば「対診」やセカンド・オピニオンは誤治をしないための自戒装置といえる。）
世界医師会の患者の人権をまもる宣言は「道徳律」に相当し、マドリッド宣言が「絶えざる反省」に相当する。マドリッド宣言において「自己規制」の重要性をのべ、各国の医師会にその効率的かつ効果的な実行をもとめているのである。日本医師会はマドリッド宣言に対応していないのであり、日本の医療界は「自律」できていないのである。
3.日本の医療界の現状。
日本の医療界の「自省」の無さの一例をしめす。
「非人道的な人体実験を行ったナチスドイツや旧日本軍731部隊など、医学を修めた者による戦争犯罪の講義やゼミを設けている大学医学部・医科大は、回答を寄せた43校中の２割にとどまることが、医師グループによるアンケート調査で分かった。ドイツでも同じ調査を実施し、回答した医科系大学のほとんどが、医師の戦争犯罪について教えていると回答。日独の医学教育の違いが浮き彫りになった。」これは、2007年8月15日配信の毎日新聞の記事である。「薬害エイズ事件を引き起こした旧ミドリ十字の設立に731部隊員がかかわったように、戦後繰り返された薬害や医療過誤の背景の一因には、医師や医学界が戦争に加担した責任に向き合ってこなかったことがある。負の歴史を踏まえた医学教育を施すことが、医の倫理の確立に欠かせない」という原文夫・大阪府保険医協会事務局参与の言葉を載せている。
つぎに日本の医療界の「他律」の一例をしめす。
日本最初の心臓移植をおこなった和田壽郎札幌医大教授（当時）は、殺人罪および業務上過失致死罪で告発された。札幌地検は「起訴にいたる十分な証拠が無い」として不起訴処分とした。しかし、「心臓移植事件調査特別委員会」をもうけて人権問題として検討してきた日弁連は、不起訴処分後、和田教授にたいする警告をだした。「対診」なくして心臓移植をおこなうべからず、という内容である。「対診」とは「健全なる医師間の相互評価＝peer review」であり、日本医師会の「医師の倫理」（昭和26年定）において「必要なる対診は、努めてこれを行うべきである」と記載されている。すなわち、日弁連の警告は、和田心臓移植が倫理違反である事を指摘したのである。反省の無い医療界を、日弁連が律した（他律）のであるが、それでも、日本の医療界は対応しなかった。　
自律できていない日本の医療界、自己規制できない日本の医療界。医療界に対する不信感が大きくなって当然である。
4.信頼と尊敬をとりもどすために。　
「医療崩壊」とよばれる現在の医療危機は、勤務医の立ちさりとして現れている。立ちさりの原因は、第一に低医療費政策による過酷な勤務状況であり、第二に国民の医療不信からくるクレーム・訴訟の増加、法曹界の医療界不信からくる検察の関与である。不信はどのように醸しだされ、どうすれば無くせるのか。
&#160;
信頼を失う行為があった場合、他者から厳しく罰せられても（すなわち他律では）信頼は回復されない。信頼回復には自らを律する（自律する）ことが必要である。医師がもっとも信頼を失う行為は「誤治」である。究極の「誤治」は「死に至らしめる誤治」である。「自己規制」としての「誤治に対する評価・制裁制度」をもっていない日本の医療界にたいして、国主導の、すなわち「他律」的な「医療安全調査委員会」（仮称）が設置されようとしている。これを阻止するためには、マドリッド宣言がいうように、「自律」した、「自己規制」のはたらく新しい日本の医師会が必要である。
自律が無ければ、医療は官僚的（他律的）となり、医師が理想と考える医療を医師の手によって実現させることはできない。理想をかかげその実現に邁進する、これがなければ尊敬されることはない。信頼され、尊敬されるためには、まず医療界の自律、professional autonomyを確立することが必要である。
「おまかせ医療」のルーツとして批判のあるヒポクラテスであるが、「ヒポクラテスの誓い」によって医師の職業倫理の重要さを最初に表明した「医聖」であることに違いない。そしてその誓いの最後に「自己規制」の重要さを以下のように表明しているのである。
「この誓いを守り続ける限り、私は、いつも医術の実施を楽しみつつ生きてすべての人から尊敬されるであろう。もしもこの誓いを破るならその反対の運命をたまわりたい。」
自己規制の効かない、現在の日本の医療界は、「その反対の運命」をたまわっているようである。
（2009. MRIC臨時vol.259にて発表）

]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>はじめに</strong></p>
<p>「富国強兵」をスローガンにした明治新政府も、「敗戦後の復興」をめざした昭和新政府も、官僚組織による統制を必要とした。その果たした役割は大きかったが弊害もめだつようになった。そこへでてきたのが、「脱官僚依存の政治」をスローガンにした民主党主導の平成新政府である。明治以来の方向転換である。</p>
<p>　日本医師会も、時の流れにそってその役割を担ってきたが弊害もめだつようになってきた。おおきな政治の転換点にあたり、医療界もおおきく変ることが求められている。ひとつは敗戦直後に定められた「医師法」、「医療法」を、現在の医療にあわせるための改定である（当コラム欄(3) 「『医療崩壊』と医師法『応召義務』規定」を参照）。もうひとつが本稿で述べる「自律」した医療界への転換である。</p>
<p><strong><span style="color: rgb(0, 0, 255);">1.世界医師会「マドリッド宣言」の実行を。</span></strong></p>
<p>世界医師会は、1947年の第一回総会いらい、医の倫理や社会医学に関連する協議をかさね、必要におうじて宣言として発表してきた。日本医師会も1951年に加盟している。世界医師会が発表してきた宣言の基礎には、ナチス政権下のホロコーストにおける医師の戦争犯罪にたいする反省がある。第一の反省は、患者の人権蹂躪にたいする反省であり、第二は、時の権力に組みしかれたことに対する反省である。第一の反省にたいしては、患者の人権擁護のための宣言（ヘルシンキ宣言など）をおこない、第二の反省にたいしては、医療界がいかなる権力にも屈しないための宣言をおこなった。それが1987年の「professional autonomy and self-regulation」に関するマドリッド宣言である。</p>
<p>マドリッド宣言では、医療界の「autonomy=自律」、すなわちprofessional autonomyの重要さを述べるとともに、「self-regulation=自己規制」を効果的かつ効率的に実行する責任を各国の医師会にもとめている。残念ながら、現在の日本医師会はこの世界医師会の期待に答えていない。自民党だのみ、すなわち「他律」的といえる現在の日本医師会に「自律」を期待することは無理である。ナチスによるホロコーストと同様に、日本においても関東軍731部隊による人体実験がおこなわれ、おおくの日本人医師がこれに加担した過去がある。戦時下の医学犯罪を教訓にして、時の権力に屈することの無いよう、そして世界につうじる「自律」した医師会を、今こそ日本につくるべき時ではなかろうか。</p>
<p><strong><span style="color: rgb(0, 0, 255);">2.自律と自己規制は、表裏一体のものである。 </span></strong></p>
<p>「自律」を最初に述べたのはカントである。カントの考えかたは次のようになる。神（理想）に近づくためには、第一におのれが従うべき「道徳律」を持つこと。しかし神ではないので、その「道徳律」を踏みあやまることがある。そこで第二に、「絶えざる反省」をすること。踏みあやまらないための「自戒」、踏みあやまった時の「自省」である。その結果が「自律」したことになる。自戒・自省という自己規制なくして、自律はあり得ないのである。踏みあやまったとき、「自律」が無ければ、他が律する（「他律」）ことになる。（カントのこの考えは、フーフェラントの「医の倫理」となり、そのオランダ語訳が幕末日本にもたらされて緒方洪庵の「扶氏医戒之略」となった。緒方洪庵の私塾である適塾に学んだ福沢諭吉らにおおきな影響を与え、明治維新の日本のかじ取り、いわば列強からの日本の自律、において彼らを活躍させ得たといえるのである。しかしながら、官僚統制を必要とした明治新政府、さらに昭和新政府のもとでは、医療界の（医療界だけではなく多方面での）自律は不可能であった。脱官僚政治の平成新政府のもとでこそ、やっと医療界の自律が可能となったのである。「今こそ」、なのである。）</p>
<p>カントの考えを医師集団にあてはめると、「道徳律」は「医師の職業倫理」となり、「絶えざる反省」は「健全なる医師間の相互評価＝peer review」となる。「医師の職業倫理」の中身は患者の人権擁護であり、「健全なる医師間の相互評価＝peer review」とは、患者の人権蹂躪（ナチスのホロコーストや関東軍731部隊の人体実験など）、あるいは日常診療での医療ミス＝誤った治療（「誤治」）、が起こらないように相互に自戒し、あるいは起こったときは相互に自省をする、すなわち「自己規制」し合うことである。（たとえば「対診」やセカンド・オピニオンは誤治をしないための自戒装置といえる。）</p>
<p>世界医師会の患者の人権をまもる宣言は「道徳律」に相当し、マドリッド宣言が「絶えざる反省」に相当する。マドリッド宣言において「自己規制」の重要性をのべ、各国の医師会にその効率的かつ効果的な実行をもとめているのである。日本医師会はマドリッド宣言に対応していないのであり、日本の医療界は「自律」できていないのである。</p>
<p><strong><span style="color: rgb(0, 0, 255);">3.日本の医療界の現状。</span></strong></p>
<p><strong>日本の医療界の「自省」の無さの一例をしめす。</strong><br />
「非人道的な人体実験を行ったナチスドイツや旧日本軍731部隊など、医学を修めた者による戦争犯罪の講義やゼミを設けている大学医学部・医科大は、回答を寄せた43校中の２割にとどまることが、医師グループによるアンケート調査で分かった。ドイツでも同じ調査を実施し、回答した医科系大学のほとんどが、医師の戦争犯罪について教えていると回答。日独の医学教育の違いが浮き彫りになった。」これは、2007年8月15日配信の毎日新聞の記事である。「薬害エイズ事件を引き起こした旧ミドリ十字の設立に731部隊員がかかわったように、戦後繰り返された薬害や医療過誤の背景の一因には、医師や医学界が戦争に加担した責任に向き合ってこなかったことがある。負の歴史を踏まえた医学教育を施すことが、医の倫理の確立に欠かせない」という原文夫・大阪府保険医協会事務局参与の言葉を載せている。</p>
<p><strong>つぎに日本の医療界の「他律」の一例をしめす。</strong><br />
日本最初の心臓移植をおこなった和田壽郎札幌医大教授（当時）は、殺人罪および業務上過失致死罪で告発された。札幌地検は「起訴にいたる十分な証拠が無い」として不起訴処分とした。しかし、「心臓移植事件調査特別委員会」をもうけて人権問題として検討してきた日弁連は、不起訴処分後、和田教授にたいする警告をだした。「対診」なくして心臓移植をおこなうべからず、という内容である。「対診」とは「健全なる医師間の相互評価＝peer review」であり、日本医師会の「医師の倫理」（昭和26年定）において「必要なる対診は、努めてこれを行うべきである」と記載されている。すなわち、日弁連の警告は、和田心臓移植が倫理違反である事を指摘したのである。反省の無い医療界を、日弁連が律した（他律）のであるが、それでも、日本の医療界は対応しなかった。　<br />
自律できていない日本の医療界、自己規制できない日本の医療界。医療界に対する不信感が大きくなって当然である。</p>
<p><strong><span style="color: rgb(0, 0, 255);">4.信頼と尊敬をとりもどすために。</span></strong>　</p>
<p>「医療崩壊」とよばれる現在の医療危機は、勤務医の立ちさりとして現れている。立ちさりの原因は、第一に低医療費政策による過酷な勤務状況であり、第二に国民の医療不信からくるクレーム・訴訟の増加、法曹界の医療界不信からくる検察の関与である。不信はどのように醸しだされ、どうすれば無くせるのか。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>信頼を失う行為があった場合、他者から厳しく罰せられても（すなわち他律では）信頼は回復されない。信頼回復には自らを律する（自律する）ことが必要である。医師がもっとも信頼を失う行為は「誤治」である。究極の「誤治」は「死に至らしめる誤治」である。「自己規制」としての「誤治に対する評価・制裁制度」をもっていない日本の医療界にたいして、国主導の、すなわち「他律」的な「医療安全調査委員会」（仮称）が設置されようとしている。これを阻止するためには、マドリッド宣言がいうように、「自律」した、「自己規制」のはたらく新しい日本の医師会が必要である。</p>
<p>自律が無ければ、医療は官僚的（他律的）となり、医師が理想と考える医療を医師の手によって実現させることはできない。理想をかかげその実現に邁進する、これがなければ尊敬されることはない。信頼され、尊敬されるためには、まず医療界の自律、professional autonomyを確立することが必要である。</p>
<p>「おまかせ医療」のルーツとして批判のあるヒポクラテスであるが、「ヒポクラテスの誓い」によって医師の職業倫理の重要さを最初に表明した「医聖」であることに違いない。そしてその誓いの最後に「自己規制」の重要さを以下のように表明しているのである。</p>
<p>「この誓いを守り続ける限り、私は、いつも医術の実施を楽しみつつ生きてすべての人から尊敬されるであろう。もしもこの誓いを破るならその反対の運命をたまわりたい。」</p>
<p>自己規制の効かない、現在の日本の医療界は、「その反対の運命」をたまわっているようである。</p>
<p align="right">（2009. MRIC臨時vol.259にて発表）</p>
<p style="text-align: center;"><a href="mailto:info@ahiraoka.com"><img src="../../../images/mailto.gif" alt="コラムへのご意見・ご相談はこちらへ" /></a></p>
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	</item>
		<item>
		<title>(6)医師の職業倫理からみた臓器移植法の改定（おもにDrへ）</title>
		<link>http://www.ahiraoka.com/column/244/</link>
		<comments>http://www.ahiraoka.com/column/244/#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 07 Jul 2009 17:17:36 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[コラム]]></category>

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		<description><![CDATA[健保連　大阪中央病院　平岡諦

はじめに。 「患者の利益を第一とし、患者に危害を加えたり不正を働かない（ヒポクラテス全集『誓い』より）」。 「医師は患者を決して手段と見るのではなく、常に目的として見なければなりません（フーフェラント『医の倫理』より）」。 「其術を行ふに当ては病者を以って正鵠とすべし。決して弓矢となすことなかれ（緒方洪庵『扶氏医戒之略』より）」。 （著者注；上記のフーフェラントの引用部分に対応して、洪庵が意訳した部分です。）
    これらの内容は、現在にも通じる、重要な医師の職業倫理である。この職業倫理を守らないことは、即、患者にたいする人権侵害となる。日本弁護士連合会（以下、日弁連）は「和田心臓移植」を医師による人権侵害であるととらえた。「和田心臓移植」がこの職業倫理にたいする倫理違反であると判断したからであろう。 「和田心臓移植」においては、ドナー・レシピエント双方にたいする人権侵害であった。現在の臓器移植医療においては、特にドナーにたいする人権侵害、そして脳死の取りあつかいについて注意を払わなければならない。
「和田心臓移植」と「違法でなければ」。 「和田の手術の後では、同じやり方で移植を行っても罪にならないという道が日本でも開かれたのであった。それにもかかわらず、心臓移植手術は行われなかったのだ」（和田壽郎著「神から与えられたメス」メディカルトリビューン　2000年、146頁より）。 1970年に「和田心臓移植」が不起訴（無罪判決と同一）となった。しかしその後も心臓移植は再開されなかった。「違法でないのに」なぜ心臓移植手術を再開しなかったのか。上の引用文は、和田壽郎医師から他の心臓外科医に対する批判の言葉である。 「違法でなければ」という言葉には「非倫理的であっても」という考えが含まれている。他の外科医が心臓移植手術を再開しなかった理由は、この「非倫理的であっても」に同調できなかったからであろう。 「（非倫理的であっても、）違法でなければ」という言葉には、法律と倫理を別物とする考え、いいかえれば、「非倫理的な法律の存在」が前提になっている。しかしながら、社会道徳の現在の常識では「法は最低限の倫理」であり、法は倫理に含まれる。したがって、「（非倫理的であっても、）違法でなければ」という言葉は詭弁となり、詭弁を使うと社会からの不信をまねく。（蛇足ながら、これは他の業界でも同様である。特に立法権を持つ国会議員が、政治資金規正法に照らして「違法でない」ことを行動の妥当性に用いるとき、政治資金規正法を改定できる本人であるだけに、二重に不信をまねくことになる。これが政治不信の大きな原因である。）
移植医のとった方法、「脳死の合法化」： 「和田心臓移植」以降、心臓移植をはじめ、脳死にかかわる臓器移植は日本でおこなわれなかった。そこで移植医の考えた方法は「脳死の合法化」である。 1997年「臓器の移植に関する法律」（現行法）が制定された。法制化の前提とされたのが、(1)脳死を人の死と捉えることが社会の共通認識には至っていないこと、(2)脳死状態になったら臓器を他者に提供したいと考える者の意思（自己決定）を尊重すること、の２点である。そこで「臓器移植に限定して、脳死を人の死とする」現行法が制定された。すなわち、「脳死の限定的な合法化」が行われたことになる。 今回、衆議院で可決されたA案では、現行法の制定時に前提とされた(1)、(2)を否定して、「脳死を一律に人の死とする」、「本人の自己決定を否定する」法案である。したがって、これは現行法の改定ではなく、もし成立すれば「脳死の完全な合法化」を定めた新法である。今回のような決め方でよいのであろうか。 今回の改定の目的の一つは、子供に対する脳死移植の道を開くことである。そのためには、子供に対する「脳死の限定的な合法化」を付け加えることを考えるのが筋道ではなかろうか。 もしA案が成立して「脳死を一律人の死とする」ことが法律で決められた場合、医療の進歩で臓器移植が不必要になった時点で、人の死をもとに戻すことは可能なのだろうか。その時、問題はおこらないのだろうか。
「脳死の合法化」による、医師の職業倫理の低迷： 先にも述べたが、社会道徳の現在の常識では「法は最低限の倫理」である。「脳死の合法化」によって、医師の職業倫理は最大限でも「遵法」、すなわち「最低限の倫理の実行」に過ぎなくなる。このことは、「非倫理的ではあるが」から「最低限の倫理の実行」へ進歩したことにはなるが、職業倫理の努力目標が「最低限の倫理」に固定されるという退歩でもある。 現行法は「脳死の限定的な合法化」である。したがって、対象の医師は移植関係医師に限定されている。もしA案が成立すると、対象の医師は、移植と関係する、しないにかかわらず、脳死に関わるすべての医師に拡がることになる。すなわち「遵法」を最大限の職業倫理とする医師が増加することになる。「最低限の倫理」を実行する医師の拡がりは、医師全体としての倫理性の低下となることはあっても、倫理性の向上に働かないことは確かである。 「脳死の完全な合法化」は、医師全体としての倫理性の低迷をもたらし、その結果は、さらなる医療不信の増強となっても、決して医療不信の解消にはつながらない。すなわち、和田心臓移植がもたらした医療不信に加えて、現在の医療崩壊を加速させることはあっても、医療再生を促進することにはならない。
「和田心臓移植」の職業倫理違反と「自律」。 1968年８月８日；日本で最初の心臓移植。83日目にレシピエント死亡。 1969年９月；日弁連は、ドナー・レシピエントに対する医師の人権侵害ととらえて「心臓移植事件特別委員会」を設置。 1969年12月；漢方医ら、和田壽郎教授を殺人罪および業務上過失致死罪で告発。 1970年８月；札幌地検は、不起訴処分に。 1973年３月；日弁連は、和田壽郎教授宛の警告をおこなう。
    以上が、「和田心臓移植」の概略である。日弁連の行った警告のうち、職業倫理に関係する主な内容を以下に示す。 「心臓移植における受給者の適応は、当該心臓移植に関係のない内科医を含む複数の医師の対診の下に決定すること。」 「提供者の死の判決は、当該心臓移植手術に関係のない麻酔科医を含む複数の医師の対診の下にこれを行うこと。」 対診の倫理性については、その当時に実効性のあった、昭和26年日本医師会定「医師の倫理」に示されている。その第二　医師の心得、第二章　医師相互間の義務に次のように記されている。 第２節 必要なる対診は、努めてこれを行うべきである。 第３節 対診には、不誠実と競争心があってはならない。 第13節　患者について、他医からの問い合わせがあった場合には、詳細かつ迅速に、必要な記録を提供すべきである。
    日弁連の警告は、「和田心臓移植」における「密室性」を「対診」という言葉を使って糾弾したものであり、和田壽郎医師が犯した職業倫理違反を日本医師会の「医師の倫理」を使って指摘したものである。日弁連という外部からの指摘を受けたにもかかわらず、日本の医療界は対応できなかった、あるいはしなかった。その後も対応していない日本の医療界は「自律」できていないことになる。これら一連の状況により、社会に大きな医療不信を残し、また、法曹界からも信用されていない。その結果が、今日の立ち去り型医療崩壊の底流となり、また、現在検討中の医療安全調査委員会設置法案（仮称）の法曹界側の意見にも影響を与えていると思われるのである。 そもそも移植医の取った「脳死の合法化」とは、法律により決めてもらうこと、すなわち「他律」への道である。A案ではその対象となる医師が拡大されることになり、日本の医療界の「自律」への道をさらに逆行させることになる。
問題点： １）今回、衆議院で可決されたA案は、現行法制定時の前提を二つとも否定しており、「脳死を一律に人の死とする」、「本人の自己決定を否定する」法案である。したがって、これは現行法の改定ではなく、もし成立すれば「脳死の完全な合法化」を定めた新法である。今回のような決め方でよいのだろうか。 ２）今回の改定の端緒の一つは、子供に対する脳死移植の道を開くことである。そのためには、子供に対する「脳死の限定的な合法化」を付け加えることを考えるのが筋道ではないだろうか。 もしA案が成立して「脳死を一律人の死とする」ことが法律で決められた場合、医療の進歩で臓器移植が不必要になった時点で、人の死をもとに戻すことは可能なのだろうか。その時、問題はおこらないのだろうか。 ３）「脳死の完全な合法化」が医師全体としての倫理性の低迷をもたらし、その結果は、さらなる医療不信の増強となっても、決して医療不信の解消にはつながらない。すなわち、和田心臓移植がもたらした医療不信に加えて、現在の医療崩壊を加速させることはあっても、医療再生を促進することにはならないだろう。 ４）そもそも移植医の取った方法、「脳死の合法化」とは、法律により決めてもらうこと、すなわち「他律」であり、A案は日本の医療界の「自律」（プロフェッショナル・オートノミー）への道をさらに逆行させるものであろう。 ５）A案は「本人の自己決定を否定」するものであり、現在の日本の医療における基本概念、インフォームド・コンセントの概念に逆行するものであろう。 以上、医師の職業倫理からみた臓器移植法の改定、特にA案についての問題点を述べた。

（2009.7.5脱稿）

]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p style="text-align: right;">健保連　大阪中央病院　平岡諦</p>
<ol class="column">
<li><span style="color: rgb(0, 0, 255);"><strong>はじめに。</strong></span> 「患者の利益を第一とし、患者に危害を加えたり不正を働かない（ヒポクラテス全集『誓い』より）」。 「医師は患者を決して手段と見るのではなく、常に目的として見なければなりません（フーフェラント『医の倫理』より）」。 「其術を行ふに当ては病者を以って正鵠とすべし。決して弓矢となすことなかれ（緒方洪庵『扶氏医戒之略』より）」。 （著者注；上記のフーフェラントの引用部分に対応して、洪庵が意訳した部分です。）<br style="margin-bottom: 3px;" /><br />
    これらの内容は、現在にも通じる、重要な医師の職業倫理である。この職業倫理を守らないことは、即、患者にたいする人権侵害となる。日本弁護士連合会（以下、日弁連）は「和田心臓移植」を医師による人権侵害であるととらえた。「和田心臓移植」がこの職業倫理にたいする倫理違反であると判断したからであろう。 「和田心臓移植」においては、ドナー・レシピエント双方にたいする人権侵害であった。現在の臓器移植医療においては、特にドナーにたいする人権侵害、そして脳死の取りあつかいについて注意を払わなければならない。</li>
<li><span style="color: rgb(0, 0, 255);"><strong>「和田心臓移植」と「違法でなければ」。</strong></span> 「和田の手術の後では、同じやり方で移植を行っても罪にならないという道が日本でも開かれたのであった。それにもかかわらず、心臓移植手術は行われなかったのだ」（和田壽郎著「神から与えられたメス」メディカルトリビューン　2000年、146頁より）。 1970年に「和田心臓移植」が不起訴（無罪判決と同一）となった。しかしその後も心臓移植は再開されなかった。「違法でないのに」なぜ心臓移植手術を再開しなかったのか。上の引用文は、和田壽郎医師から他の心臓外科医に対する批判の言葉である。 「違法でなければ」という言葉には「非倫理的であっても」という考えが含まれている。他の外科医が心臓移植手術を再開しなかった理由は、この「非倫理的であっても」に同調できなかったからであろう。 「（非倫理的であっても、）違法でなければ」という言葉には、法律と倫理を別物とする考え、いいかえれば、「非倫理的な法律の存在」が前提になっている。しかしながら、社会道徳の現在の常識では「法は最低限の倫理」であり、法は倫理に含まれる。したがって、「（非倫理的であっても、）違法でなければ」という言葉は詭弁となり、詭弁を使うと社会からの不信をまねく。（蛇足ながら、これは他の業界でも同様である。特に立法権を持つ国会議員が、政治資金規正法に照らして「違法でない」ことを行動の妥当性に用いるとき、政治資金規正法を改定できる本人であるだけに、二重に不信をまねくことになる。これが政治不信の大きな原因である。）</li>
<li><span style="color: rgb(0, 0, 255);"><strong>移植医のとった方法、「脳死の合法化」：</strong></span> 「和田心臓移植」以降、心臓移植をはじめ、脳死にかかわる臓器移植は日本でおこなわれなかった。そこで移植医の考えた方法は「脳死の合法化」である。 1997年「臓器の移植に関する法律」（現行法）が制定された。法制化の前提とされたのが、(1)脳死を人の死と捉えることが社会の共通認識には至っていないこと、(2)脳死状態になったら臓器を他者に提供したいと考える者の意思（自己決定）を尊重すること、の２点である。そこで「臓器移植に限定して、脳死を人の死とする」現行法が制定された。すなわち、「脳死の限定的な合法化」が行われたことになる。 今回、衆議院で可決されたA案では、現行法の制定時に前提とされた(1)、(2)を否定して、「脳死を一律に人の死とする」、「本人の自己決定を否定する」法案である。したがって、これは現行法の改定ではなく、もし成立すれば「脳死の完全な合法化」を定めた新法である。今回のような決め方でよいのであろうか。 今回の改定の目的の一つは、子供に対する脳死移植の道を開くことである。そのためには、子供に対する「脳死の限定的な合法化」を付け加えることを考えるのが筋道ではなかろうか。 もしA案が成立して「脳死を一律人の死とする」ことが法律で決められた場合、医療の進歩で臓器移植が不必要になった時点で、人の死をもとに戻すことは可能なのだろうか。その時、問題はおこらないのだろうか。</li>
<li><span style="color: rgb(0, 0, 255);"><strong>「脳死の合法化」による、医師の職業倫理の低迷：</strong></span> 先にも述べたが、社会道徳の現在の常識では「法は最低限の倫理」である。「脳死の合法化」によって、医師の職業倫理は最大限でも「遵法」、すなわち「最低限の倫理の実行」に過ぎなくなる。このことは、「非倫理的ではあるが」から「最低限の倫理の実行」へ進歩したことにはなるが、職業倫理の努力目標が「最低限の倫理」に固定されるという退歩でもある。 現行法は「脳死の限定的な合法化」である。したがって、対象の医師は移植関係医師に限定されている。もしA案が成立すると、対象の医師は、移植と関係する、しないにかかわらず、脳死に関わるすべての医師に拡がることになる。すなわち「遵法」を最大限の職業倫理とする医師が増加することになる。「最低限の倫理」を実行する医師の拡がりは、医師全体としての倫理性の低下となることはあっても、倫理性の向上に働かないことは確かである。 「脳死の完全な合法化」は、医師全体としての倫理性の低迷をもたらし、その結果は、さらなる医療不信の増強となっても、決して医療不信の解消にはつながらない。すなわち、和田心臓移植がもたらした医療不信に加えて、現在の医療崩壊を加速させることはあっても、医療再生を促進することにはならない。</li>
<li><span style="color: rgb(0, 0, 255);"><strong>「和田心臓移植」の職業倫理違反と「自律」。</strong></span> 1968年８月８日；日本で最初の心臓移植。83日目にレシピエント死亡。 1969年９月；日弁連は、ドナー・レシピエントに対する医師の人権侵害ととらえて「心臓移植事件特別委員会」を設置。 1969年12月；漢方医ら、和田壽郎教授を殺人罪および業務上過失致死罪で告発。 1970年８月；札幌地検は、不起訴処分に。 1973年３月；日弁連は、和田壽郎教授宛の警告をおこなう。<br style="margin-bottom: 3px;" /><br />
    以上が、「和田心臓移植」の概略である。日弁連の行った警告のうち、職業倫理に関係する主な内容を以下に示す。 「心臓移植における受給者の適応は、当該心臓移植に関係のない内科医を含む複数の医師の対診の下に決定すること。」 「提供者の死の判決は、当該心臓移植手術に関係のない麻酔科医を含む複数の医師の対診の下にこれを行うこと。」 対診の倫理性については、その当時に実効性のあった、昭和26年日本医師会定「医師の倫理」に示されている。その第二　医師の心得、第二章　医師相互間の義務に次のように記されている。 第２節 必要なる対診は、努めてこれを行うべきである。 第３節 対診には、不誠実と競争心があってはならない。 第13節　患者について、他医からの問い合わせがあった場合には、詳細かつ迅速に、必要な記録を提供すべきである。<br style="margin-bottom: 3px;" /><br />
    日弁連の警告は、「和田心臓移植」における「密室性」を「対診」という言葉を使って糾弾したものであり、和田壽郎医師が犯した職業倫理違反を日本医師会の「医師の倫理」を使って指摘したものである。日弁連という外部からの指摘を受けたにもかかわらず、日本の医療界は対応できなかった、あるいはしなかった。その後も対応していない日本の医療界は「自律」できていないことになる。これら一連の状況により、社会に大きな医療不信を残し、また、法曹界からも信用されていない。その結果が、今日の立ち去り型医療崩壊の底流となり、また、現在検討中の医療安全調査委員会設置法案（仮称）の法曹界側の意見にも影響を与えていると思われるのである。 そもそも移植医の取った「脳死の合法化」とは、法律により決めてもらうこと、すなわち「他律」への道である。A案ではその対象となる医師が拡大されることになり、日本の医療界の「自律」への道をさらに逆行させることになる。</li>
<li><span style="color: rgb(0, 0, 255);"><strong>問題点：</strong></span> １）今回、衆議院で可決されたA案は、現行法制定時の前提を二つとも否定しており、「脳死を一律に人の死とする」、「本人の自己決定を否定する」法案である。したがって、これは現行法の改定ではなく、もし成立すれば「脳死の完全な合法化」を定めた新法である。今回のような決め方でよいのだろうか。 ２）今回の改定の端緒の一つは、子供に対する脳死移植の道を開くことである。そのためには、子供に対する「脳死の限定的な合法化」を付け加えることを考えるのが筋道ではないだろうか。 もしA案が成立して「脳死を一律人の死とする」ことが法律で決められた場合、医療の進歩で臓器移植が不必要になった時点で、人の死をもとに戻すことは可能なのだろうか。その時、問題はおこらないのだろうか。 ３）「脳死の完全な合法化」が医師全体としての倫理性の低迷をもたらし、その結果は、さらなる医療不信の増強となっても、決して医療不信の解消にはつながらない。すなわち、和田心臓移植がもたらした医療不信に加えて、現在の医療崩壊を加速させることはあっても、医療再生を促進することにはならないだろう。 ４）そもそも移植医の取った方法、「脳死の合法化」とは、法律により決めてもらうこと、すなわち「他律」であり、A案は日本の医療界の「自律」（プロフェッショナル・オートノミー）への道をさらに逆行させるものであろう。 ５）A案は「本人の自己決定を否定」するものであり、現在の日本の医療における基本概念、インフォームド・コンセントの概念に逆行するものであろう。 以上、医師の職業倫理からみた臓器移植法の改定、特にA案についての問題点を述べた。</li>
</ol>
<p align="right">（2009.7.5脱稿）</p>
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